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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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他の悲しみは自分の悲しみ

他の悲しみは自分の悲しみ

「教師とはまず同情者である

生長の悩みを悩む子にとって教師はその悩みの課題を卒業して来た人生の先輩である。それが先輩であるならば、悩める後輩に接してどんな態度をとるであろうか。軽蔑するであろうか、鞭をもって責めるであろうか、甘やかしてその問題から逃避させてその解決を放棄させるであろうか。

真に、今眼前に後輩が解き難きものとして悩める課題を過去において身をもって解決して来た先輩であるならばどうして、そのような薄情なことができようか。子どもと共に悩むより他に道がないではないか。子どもの心をじっとみつめて、その子どもの心に添って、子どもの心の動きと共に自分もついていく。それによってこの子が、いかなる点において問題の解決を阻まれているかを、わが身をもって知ることができ、共に手をとってその難関を透過することができるのである。

共に悩むのが教師で、共に悩むことのできぬものは教師であり得ない。

子どもについて悩むといっても、子どもが思うようによくなってくれないからとて悩む大人の悩みは必ずしも貴いものではない。むしろこの悩みは子どもの正しい生長のためには悪影響を及ぼす場合すら少くないのである。ここに言う「共に悩む」というのはそれとは別で、子どもの悩みそのものを自ら悩むということである。すなわち文字通りの「同情」をいうのである。

子どもの心の動きを真に知り同情し得る人は子どもの生長のため役立つよき先輩であり然らざるものは先輩たるに値せぬものである。教師とはまず同情者である。

しかし、子どもの遭遇する殆んどすべての課題について自分の過去に経験を持つ教師が果たしているであろうか、しばしば反聞されるが、実は大ていの大人は殆んどその経験を持っているものである。心の上で経験してきている。ただその問題に出合ったとき、どの程度にこれを解決してきたかは各々差があるであろう。その差はよき教師たる資格の差であると言わねばならぬ。

観音菩薩という方は人間の遭遇するありとあらゆる困難な問題をすべて経験し解決を遂げてわれわれの後輩を導いて下さるそうである。どんな人間の心をもわが心として共に悩む最大の同情者であるならば、観音さまは模範的教師であるかも知れない。
(昭和21年1月)」

以上は僕の恩師である和田重正先生のご著書『よい教育の場を求めて』(柏樹社刊)の一文章ですが、今日何十年かぶりに手に取って開いたページがこの文章でした。

読んでみて、僕もまったく同感です。でも、同情は教師、あるいは、教育者だけの問題ではありません。

「同情」とは広辞苑によれば、「他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること」となっています。つまり、同情とは私たち人間の自他不可分一体の存在の真実に基づく集団本能の発露であり、私たちが生きていくうえで最も大切なものです。

つまり、他の苦しみをそっくりそのまま自分の悲しみとし、自分の喜びをそっくりそのまま他の喜びとしていこうという心境に立って生きていかないかぎり、私たち自身も絶対に真の幸福を得ることはできないのです。




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コメント

他の悲しみは自分の悲しみ

これまで、相手が悩みなどを話してくれたときに、
まず同情していただろか?!
本当にその身になって感じていただろうか?!
何か解決策を提示しなければと、変な義務感を感じていなかっただろうか?!
と、問いかけ調べています。

他の悲しみを自分の悲しみとする

問題に出会ったとき、どの程度にこれを解決してきたかの差はよき教師たる資格の差。
どんな問題からも目を逸らさず、よく向き合って解決していこうと思いました。

他の悲しみを自分の悲しみ

この言葉を教えていただいてから、宿題にしています。和田先生の言葉と昇平先生のお話をお聞きして、「同情」という言葉の本当の意味を知る事が出来ました。「他の苦しみをそっくりそのまま自分の悲しみとし、自分の喜びをそっくりそのまま他の喜びとする」思い起こせばこれは先生方そのものでした。自分の体験された様々なことを惜しげもなく、みんなに一番いいようにと分かりやすく伝えて下さる先生方だと。それをいいとこどりは失礼でした。心がけるのではなく、これそのものでいきます。

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

私も「同情」をきちんと理解していませんでした。かつて「同情するなら金おくれ」というTVドラマが流行りましたが、「同情」を上辺でとらえ「同情する」のはどこか失礼な感覚がありました。

日々障害を持っている方と接しています。ご本人やご家族に真の意味で同情できる人になりたい。

 「他の苦しみを自分の苦しみとする。自分の喜びを他の喜びとする」自分はどうだろうかと問いかけていました。
 難病と診断されたS子さんとご主人様の手当てに伺いました。初対面でしたので一回目は、お互いに遠慮がちでしたが、不思議とお互いに前にお会いしているようだと気づきました。そして、同化したかのようにS子さんが自分であったかもしれないと思えました。ご主人を支え、お子さん方を育て上げ、今に至っていることを思うと言葉以前の情がこみ上げ、心も体も空っぽになってしまった感じでした。手足が動かないので手伝うのではなく、一緒にいる時間を大切にしたい、一緒に笑いたい、ただそれだけが嬉しくて、S子さんと、奥様をとても愛し大事にされているご主人にお会いしたく、楽しみに伺うようになりました。
 先生のおっしゃる「同情」とは言えないかもしれませんが、この上ない喜びであることは確かです。

「他の苦しみをそっくりそのまま自分の悲しみとし、自分の喜びをそっくりそのまま他の喜びとしていこうという心境に立って生きていかないかぎり、私たち自身も絶対に真の幸福を得ることはできないのです。」ブログで、生き方、という言葉に出会うと、このブログを思い出すようになりました。「そっくりそのまま」という、なんのごまかしのない姿勢。自分の理解ばかり追い求めないよう、気をつけます!

悩んでいる人の身代わりになることは出来ないが寄り添うことならできる。

神様は助けてくれなかったのではなく、いつも主人公と共に苦しんでいた。遠藤周作の「沈黙」の主人公が最後に気づいたことと同じですね!

「身代わりにはなれない」ことをしっかり押さえられたら「後ろめたさ感」が減りました。良きアドバイスありがとうございました。

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