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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自己の世界  その3

自己の世界  その3
(その2からのつづき)

これまで書いてきた自分と世界の関わり方についての理解、バラバラ観のどこに問題があるのでしょうか?

それは「その1」の冒頭に書いた「私たちはふつう、この世という舞台に登場することを誕生だと思い」というところに決定的な間違いがあったのです。


この文句の意味を自分について言えば、「自分は自分にとっては”他“であるところのこの世”に“生まれた。だから、自分以外はすべては他、みんな他人だ」ということです。

では、真実はどうなのでしょうか?

真実は、すべてのもの、そして、人はこの世“から”生まれたのです。もちろん、自分もこの世から生まれたのです。だから、すべてのものや人はこの世そのものであり、みんなぶっ続きの一つのものなのです。

分かりやすく比喩的に説明しましょう。

この世は大きな川のようなもので、遥かなる昔から絶えることなく流れ続けています。その流れの中にいくつもの渦(うず)が現れます。その渦の一つが自分です。

その渦は絶えず姿が変わります。そして、やがて、もとの川の水に戻って消えます。

さて、その渦と川の水はもともと別々のものでしょうか? もちろん、同じものですね。

では、その渦と他の渦はもともと別々のものでしょうか? もちろん、同じものですね。

私たちのアタマはその渦とあっちの渦は別のものなどと思うのですが、それは表面的な形とか存在する場所が異なるからなどと、なんでも分別(ぶんべつ・ふんべつ)せずにはいられないアタマがつい、癖で、そのように思ってしまうだけのことです。本質的には、どの渦もみんな同じ水であることは明らかです。

では、その渦は川の一部分なのでしょうか? 

今、象というものについて何も知らない目の見えない人が1頭の象の尻尾を掴んでいます。そばにいた人が「それは象というものだが、象がどんなものだか分かるか?」と問えば、その目が見えない人は「象はヒモのようなものだ」と答えるでしょう。

象の鼻を掴んだ場合には「象はホースのようなものだ」と答え、象の足を掴んだ場合には「象は丸太のようなものだ」と答えるでしょう。

けれども、真実は、本質的には、象は1頭の象という全体でしかないのです。

この例が適切かどうかはわかりませんが、要するに、「全体があり、その部分がある」というのも私たちの分別を好むアタマのクセのようなものであり、本質には、全体も部分もないのです。

もちろん、アタマが捉えた表面的な現象に沿って、「その渦は川という全体の一部分である」と表現しても、それが間違いだと言っているのではありません。ただ、それによって本質を見失ってしまえば、「象はヒモのようなものだ」と言うのと同じようなことになりかねないということなのです。

要するに、本質としては、その渦も他の渦も川もみんな同じ水であり、互いに、交流・循環しあっているのですから、全体と部分などと拘(こだわ)る必要はないのであって、その渦を見て、「川だ」と言っても何の間違いではないのです。
(つづく)




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コメント

真実と違う世の中の思い込み

自分は自分にとっては”他“であるところのこの世”に“生まれた、と、世の中一般的に言われるままに信じていました。
その考え方が、自分以外は全て他だ、という考えのもとになっていたことは、なんて重大な発見だろうと思います。



中心から自覚する

このようなお話を聞いたのは、初めてではありません。以前にも先生から同じようなお話をお聞きした覚えが有り、そのときも目から鱗の感想を持った覚えがあります。
しかし、そのときと違うのは、体感、体験、実感をもって、ほんとうにそうなのだと、しみじみと。
この世の仕組みの何とありがたいことかと、感じ続けていられる今を、うれしく思います。

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