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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自己の世界  その4

自己の世界  その4
(その3からのつづき)

その3で説明しましたように、自分というのは流れている川に現れた渦のようなものであり、それはこの世のすべての人やものについても同じことです。

要するに、本質としては、自分はこの世と別のものではなく、この世のすべての人やものと同じものなのです。

この真実を、少し別の角度から説明してみましょう。

私たちはふつう、自分は自分の力で生きているように思っています。でも、本当にそうでしょうか?

そもそも、自分が生まれてきたのは自分の力ではありません。そして、心臓が動き、呼吸をしているのも、食べ物を消化し、吸収し、排せつするのも、考えるのもすべて自分自身で働かせている力ではありません。もちろん、自分に働いている力ですから、自分の力ではあるのですが、自分の思い以上のところで働いている“力“です。

また、その力は自分だけに働いているはずはありません。その力は、自分以外の人はもちろん、庭の花々や草や樹木などの植物、鳴いている小鳥やストーブの周りに寝転がっているネコたちなどの動物などに働き生かしている力と同じ力であることは明白です。

でも、その力は生物だけに働き生かしているのではありません。そもそも、その力はこの大宇宙そのものを創造し、そのすべての存在をあらしめ、空や雲、雨、山、川、海、森、平野などの大自然を創造し、そこに働きかけ、生きとし生けるものすべてを生かしている力であることには誰にも異論はないはずです。

その力を”神“、あるいは、創造者と呼んでもよいのかもしれませんが、ここでは「その力」を あえて“いのち”と呼んでおきます。

この世のすべての存在は“いのち”が現象として顕れたものです。“いのち”とその現れとしての存在は一枚の紙の裏表のようなものであり、同じものです。

ですから、「すべての人は“いのち”から生まれ、“いのち”として生き、死んで“いのち”に帰っていく」と言ってもよいでしょう。

つまり、本当の自分、すなわち、”自己”は生死を超えて不生不滅の“いのち”そのものなのです。

“いのち”は、この世において、表面的には姿形や性状やハタラキが異なったものとして現われます。けれども、本質はみんな同じ“いのち”であり、自も他もありません。

また、“いのち”という本質はアタマによる全体―部分という認識や観念を超えているので、すなわち、誰にとっても出会うところすべて我が“いのち”なのであり、誰でも天地一杯の“いのち”を生きているのです。

ただ、人間の場合には、アタマで分別的に認識した内容を存在の真実そのものだと思うクセが非常に強いので、私たちは自分が“いのち”であることも、他人などいないことも、また、本質としては生死を超えた存在であることも見失いがちです。

そして、自他の観念に縛られて、自分と自分の家族を守ることこそ最も大事だと思ってケチ臭い生き方をし、しばしば”他“と対立したり争ったりし、心の底では、いつも死を恐れながら生きています。

だからこそ、こころがけてアタマを手放しにして瞑想の自然法や只管打坐をやって、本当の自分を再体認する必要があるのです。

(つづく)




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コメント

本質はみんな同じなのに、人間はアタマのクセで分別して、それを本質だと思ってしまうからこそ、アタマの思いを追いかけずに手放す必要があるのですね。
だから、クセで思いを追いかけてしまうと苦しかったのか、と、納得しました。

今日の朝、またこのブログを読んで
ただいのちに任せて生きていけば、のびのびと自由にどこまでも開いて生きていけるんだなぁと思いました。
素晴らしい世界ですね。

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