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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自己の世界  その6

自己の世界  その6
(その5からのつづき)

ここに粘土の塊が一つあるとします。その粘土を全部使って、イヌとネコと人の像を作ったとします。

それらのイヌとネコと人の像は異なる別々のものでしょうか?それとも、同じものでしょうか?

私たちの常識的な答えは、それぞれは現在は異なる別々のものであるが、元々は同じ一つのものだった、ということになるのでしょう。

では、それらの像をもう一度潰(つぶ)して、もとのように一つの粘土の塊にしたとします。

それらのイヌとネコと人の像は異なる別々のものでしょうか?それとも、同じものでしょうか?

やはり、私たちの常識的な答えは、それぞれはもとは異なる別々のものであったが、現在は同じ一つのものであるということになるのでしょう。

以上の答え方が実にご都合主義的でいい加減な答えであることは誰にも明らかです。

それで、真実はそれらのイヌとネコと人の像は異なる別々のもの?それとも、同じもの? 一体どっちやねん? ということになります。

本質としては、つまり、この場合は粘土という素材に関しては、それがどのような形になっても、そこから、いくつもの“個”が現れたように見えても、あくまで全部同じ一つのものです。

そう言えば、神様が一つの粘土の塊からいろんな動物や人の像を作って、それを手のひらに乗せて、息をフッと吹きかけて、生命(いのち)を与えていろいろな生物や人を創造した、というような神話がありました。
(ついでに、息(いき)という日本語は本来、い=いのち、き=気、すなわち、いのちの気という意味だそうです。)

僕には神様がいらっしゃるのかどうかは分かりませんが、この世界のすべての存在はすべて目に見えない粘土(“いのち”)という素材からできています。

だから、見かけ上はいろいろ形が違うものがいくつもあるように見えますが、(そして、そう見えることにもそれなりの意味があるのですが、)本質はどこまで行っても、全部同じ一つの粘土(“いのち”)なのです。

この粘土、すなわち、“いのち”がどういうものであるか、それは私たちの五感では捉えることはできません。また、将来どんな観測機器を開発したとしても、その正体を捉えることはできないでしょう。なぜなら、“いのち”はこの世界を生み出した力ですから、それによって生み出されたものによってそれを捉えることはできません。つまり、被創造物はその創造者を認識することはできないのです。

では、“個”というものは存在しないのか?というと、もちろん、そんなことはありません。

“いのち”という素材はまったく同じで、それぞれの存在はぶっ続きなのですが、姿形や性状や働きなどの視点から言えば、当然、すべてが同じではないのは当然の事実です。

ですから、姿形や性状や働きなどを見れば、自他があり、みんな別々の存在のように“見える”のですが、それは、あくまで、それぞれの存在の根底・土台はどこまでも同じ一つのものという絶対真実の上での自他であり、別々の存在なのです。

つまり、すべての存在は表面上は別々でありながら、その本質は不可分一体なのです。

(つづく)




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