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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自己の世界  その9

自己の世界  その9
(その8からのつづき)

自己の世界については、以上説明してきたことで大意はおおむね尽きていると思いますが、いくつか関連することを思いつくままに順不同で若干補足したいと思います。

まず、優劣観念や差別観念、所有観念などは、結局、自他の観念を根底とするバラバラ観から生じたものであり、根本的に間違っています。みんな同じ“いのち”なのですから、優劣や差別や所有があるはずがないのです。

また、すべての存在は同じ“いのち”がいろいろな姿かたちや性状や機能を持って現れたものであり、もともと人間のアタマで作りあげた勝手なモノサシを当てて測った"規定“、すなわち、ラベル以前にそのものとして何ものも欠けるところなく完結して厳然として存在しています。ですから、そこに、優劣や差別などあるはずもないのです。

存在の真実を分かるためには、特別な修行をして悟りを開かなければならないということではありません。アタマで作りあげた勝手なモノサシを当てはめて何かを規定しても、それは存在の真実そのものではないということに気がつきさえすればよいのです。

要するに、ラベルはそれを貼った実物(事実そのもの)ではないということです。存在の真実、つまり、“いのち”の実物はいつもここにそれ自身で完結して厳然として存在しています。まさに、眼横鼻直(眼は横、鼻は縦に真っ直ぐ)であり、もともとのあるがまま、それが“いのち”の実物です。

人についても同じです。あなたが修行をして別の自分に変身することでも、本当の自分がどこか別のところに存在するのを見つけるわけでもありません。

“いのち”の実物は一切のラベル以前のあるがまま、そのままのあなた自身です。それ以上でもそれ以下でもありません。

あるがままのあなた自身はそのままですでに、あらゆる規定を超えて存在しているので、あらゆる評価を超えて無上の絶対価値を備えているのです。

白隠禅師は「衆生は本来すでに仏なのです。にもかかわらず、悟りを求めようとするのは、水の中にいる魚が喉が渇いたので、水が欲しいと叫んでいるのと同じです」と言っているのはまさに至言です。

この世界の本質は「すべてを生かさずにはいられない」という”無限の愛“です。無限の愛こそ“いのち”の別称です。

瞑想の自然法、あるいは、只管打坐は何か特別の心境になるためでも、悟りを開くためでも、心を落ち着かせるためでも、心を静めて無心になるためにするのではありません。

何かを求めてするのではなく、ただ、アタマの思いを手放しにして坐相(坐った姿勢)を守りながらただ座っているだけです。人間は石や岩ではなく、アタマがあるので、思いが出てくることこそ自然なのです。

問題は、その思いの内容を事実そのものと勘違いする傾向があることで、事実や存在の真実を見失いがちだということです。

ですから、アタマの思いを押さえつけたり、追いかけたりしないで、ほったらかしにしておくと、思いの力がなくなり、もともとそこにあるのですが、思いのせいで感じられにくくなっていた不可分一体の自己の“いのち”の実物をはっきりと体感できるのです。

(つづく)




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コメント

ラベルを自分だと思い込んでいました。出来ないので頑張らないと、自分には価値がないと思ってやってきました。
すべて間違っていたと気づいた時、世界が反転するほど変わりました。
これからは人、動物、木々や花等が喜ぶようにしていきます

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