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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自分はすでに完結している

自分はすでに完結している

ずっと前に『死は怖いものではない』というタイトルでブログに書いたことを覚えている方も多いと思いますが、まず、あらためてあなたに問います。

次の2つの質問に少し時間を取って、アタマでなく実感に沿って誠実に答えてください。

A: 自分が死ぬのは怖いですか?

B: 自分の死は怖いものですか?

Bの質問をAとどう違うのだろう、Aと同じではないのかと思った方も多いと思います。

そこでBの質問を次のCのように変更したら、あなたの答えはどうでしょうか?

C: 自分の死そのものは怖いものですか?

あなたの答えはどうなりましたか?

Aに対して「怖い」と答えた方は、生きている今、将来の自分の死を想像して「怖い」と答えています。つまり、生きている今の気持ちとして「怖い」と言っているのであって、死を体験したうえで「怖い」と言っているのではありません。

それに対して、Cに対しては、自分が実際に死んだ体験をしなければ答えることはできないのです。

このように、私たちはアタマで想像したものと実際に体験しなければ分からないこと、あるいは、体験そのものをごっちゃにしていることが多いのです。

それで、まだ死んでもいないのに「死は怖い」などと思いながら生きています。

では、実際の死はどういうものなのでしょうか。僕はまだ死んだことがないので分かりません。

「肉体は死んでも魂は生きている」と信じている人もいますが、もちろん、本当はどうかということは分からないのです。

臨死体験をして次の世の入り口まで行って中を少し覗(のぞ)いて、また、この世に戻ってきたという人もいるようですが、それも事実かどうかは分かりません。脳科学ではそれは脳内現象、つまり、夢のようなものにすぎないという意見が主流です。

それで、ここでは、とりあえず、常識的に(科学的に?)、肉体が脳を含めてすべての機能を停止したことを死であるとして考えてみましょう。

もし、死がそのようなものであれば、死ぬ前に死についていくら「死ぬのは怖い」とか「死ぬのはイヤだ」などと思っていても、死ぬときはその思いごと死んでいくのですから、実際は死は怖いものでも、イヤなものでもありません。

つまり、死は私たちの勝手な思いを超えて、それ自身で完結しているということです。

「完結」とは、広辞苑によれば、次のようになっています。
1 完全に終わること。
2 それ自体でまとまった形にととのっていること。

この場合の「完結」という言葉の意味を定義すると次のようになります。

「完結とはすべての評価や比較などの規定や思いを超越して、あるいは、それらとは無関係に、それ自身で厳然としてまとまって整っていること」。

ある方は「完結とは外から一切あれこれ言われる筋合いのないこと」と言われましたが、まさにその通りです。

完結しているのは死だけではありません。

あなた自身が、すでに、そのままで、どこまでも、完結しているのです。

この世界の生きとし生けるものがそのままで完結した存在であり、掛け替えのない存在なのです。

ですから、一切優劣はありません。

優劣観念の亡霊に怯えながら生きるのは、喫煙と同じで、自分で自分をいじめているのです。





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コメント

世界は私です

ここ数日、そのままで完結している自分、を生きることで、世界がどのようであるかを観て参りました。
世界は私です。
ゆるぎのない私です。
そしてすべては、つながっています。


掛け替えのない存在

”この世界の生きとし生けるものがそのままで完結した存在であり、掛け替えのない存在なのです。”
「かけがえのない」を漢字にすると、何物にも替えることができない、そのままで〇(マル)ということがよくわかります。
もう亡霊は相手にしません!

ブログを読み終えて、マンガ『天才バカボン』のバカボンのパパが「これでいいのだ!!」と言う言葉が、ふと思い出されました。そう思うと、変に頑張ろうという気持ちが消え、とても気持ちが楽になりました。

良い人生を!

掛け替えのない人生をのびのびと自由に、どこまでも開いて生きていきたいです。


思いは悪いものではないけど、事実を曇らせてしまうものであることを再確認しました。日常で起こることは事実ばかりだけど、思いが先行し、スッキリとしないアタマであることがなんて多いことかと、子育てを通して学ばせてもらっています。事実をとらえた生活を意識していこうと思います。
「自己の体験的事実」と「思い」はおなじことでしょうか?そうだとしたら、自己の体験的事実を子どもたちに押し付けてしまっているな~と反省しています。

押しつけてはダメ

自己の体験的事実が思いであろうとなかろうと、相手に押し付けてはダメなのです。

相手を批判者の態度ではなくて、相手の気持ちをとことん聴き取ろうとする態度こそもっとも大切なのです。

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生徒が15歳で亡くなりました。机にはお花があってお菓子なんかもあって、その子と出会えて一緒に過ごせて良かったと言って、みんなでいつも通り歌って過ごしました。
完結していると本当にそうだな、と思います。

学校の勉強でも、仕事でも、「一番になろう」とか「○○に勝つ」とか、違った方向になってしまい、けっきょく自分で自分をいじめているから苦しいのですね。
そのままで、どこまでも完結!晴れ晴れとした気持ちです。

生まれることも死ぬことも完結しているなら
生=死 ということなんだろうか。

生まれることになんの恐れもなかったように
死ぬことも何も恐れることはないのかと思った。

生まれるとき自分がないように、死ぬことにも自分はない。
元々なんにもないのではないか。

生まれたようで、死ぬようで
生まれてもいないし、死んでもいないのかと感じた。

なにも恐れることはなく、誰もが平等で掛け替えのない存在なんだって気が付いたら清々しく爽やかに生きていこうと思う。

自分にできることをどんどんやっていこう。



思っても思わなくても

どう思うかどう感じるかが問題なのではなく、どう思っても思わなくても、どう感じても感じなくても、それ以前にすでに完結している絶対真実に目覚め、それを生き深めていくことが大切なのです。

今、目の前にはっきりとただ存在しているのに、色のついたメガネで眺め、貼られたラベルがそれ本体だと思い込んでいました。真実が全然見えていませんでした。バラバラ観を大事に抱えていました。

自分は何一つ欠けたものはなく、そのままで完結している掛け替えのない存在だということに、はっきりと気がつきました。誰が何と言おうと、これでいいんだ!!
自覚のセミナーを受けた時にわかった方向へ、安心して向かっていけばいいんですね。

整体で、自分の身体とは最も身近かな自然、というお話を伺ったのを思い出しました。頭の考えと関係なく、営まれている身体の自然に気づいたとき、驚きました。身体というだけでなく、丸ごとの「私」が、どんな想いや判断とも関係なく、完璧な営みなのですね。この安心感。誰もがこの安心感と共にある世の中にしたい。

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