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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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只管運転

只管運転  

このタイトルを読んで、「なんだか危なそう」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。

でも、大丈夫です。心配いりません。かえって、普通の運転より安全です。

僕はすそ野がとても広い大きな山の中腹に住んでいるのですが、町に行くには自動車でほとんど一本道の整備された県道を10キロほど降りて行きます。その時は、普通の運転です。

帰りは時々まがりくねった田舎道を通って我が家に向かいます。晴れの日には前方には広大な青空の下に大きな山が見えています。

只管運転と言っても、実は、ただ運転しているだけです。目の前には大きな空や雲と山を背景にして、林や畑や家があちこちに点在しています。

そのような景色の中を“ただ運転に運転を任せて運転していくだけ”です。ですから、あちこち、眼をキョロキョロ動かしたりはしません。ただ、ゆったりと前方を見ているだけです。

また、林や畑や家、時々やって来る対向車など一つ一つのものに注意を集めるということもありません。次から次へと自然に変化する景色と共に、アタマの思いも次々と跡を留めることなく自然に流れて行きます。まさに只管瞑想です。

道路の状況は素直にはっきりと目に映っており、状況に従ってほとんど自動的に対応しながらスムーズに運転しています。ですから、同じ田舎の道を普段の運転態度で運転する時よりもかえって安全な運転になっていると思います。、

僕にとってはこのような運転が実に楽なのです。それは自分のこころがとても安らいでいるからだけでも、また、目の前に展開される景色がただ田舎の景色だからということでもなくて、もともとすべてがとても安らいでいるからです。

たとえば、前方から対向車がやってくるとき、その車を運転している人はアタマに何か大きな心配事を抱えながら運転しているのかもしれません。また、点在している家々のなかでもいろいろな心配事や問題を抱えてどうしたらよいかと不安になっている人もきっといらっしゃるに違いないのです。

でも、なぜか、すべてが安らいでいるのです。(もちろん、私たちのアタマの中には、大変だとか、不安だなどといろいろな思いがあり、それぞれ適切に対処しなければならないことは当然です。)

でも、ここで僕が言おうとしていることは、私たちの思いや行いを超えたところでは、事実の世界は、その思いや対処などぐるみ、絶対的に安らいでいるということです。僕はそこに何があってもナントモナイ悠久の世界を感得するのです。

私たちは生活のなかで、いつもアタマの思いに引き摺られて、思いを物足らせようとして、もともと何があってもナントモナイ存在の実物を見失いがちになっていることが多いのではないかと思います。

アタマの思いは存在の実物そのものとは違います。

だからこそ、日々、こころがけて、アタマの思いを手放しにして坐る姿勢に任せきる只管打坐(瞑想の自然法)をやっていくことが大切です。

僕には只管打坐よりも只管運転の方がやりやすいのですが、間違ったやり方でやるととても危険ですから、只管運転はマネをされないほうがよいかもしれませんね。(念のため)





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コメント

次元を変える発想

改めて1-5まで読み返しました。
“エゴ平面”とは次元の異なる動きを創っていくために、まず自らが率先して平和的に行動していこうと思います。

自分はない

最近、ほんとうに、自分というコロッとした塊のようなものはないんだな、とそれを確認、確認しています。
安らいでいます。

車の運転を終えてエンジンを切った瞬間が、私にとって最も静寂を体感する時です。
只管運転興味しんしん。
でも、止めておきます。

12月のセミナーで只管打坐を行なった時、これには何の目的もない、というお話がありました。何の目的もない・・・。振り返ってみると、自分は今まで全てのことに目的を求めていたように思います。瞑想にさえです。何の目的もないことをする。異次元にポーンと放り出されたような、又、解放されるような感覚がしました。放り出されてみて、はっと、理屈をつけたがる人間根性ってこんなにも気づかない程しみ込んでいるのだなあと驚きました。目的なくただ座る只管打坐は、掴みどころがないようでいて、自分にとっては何かがひっくり返されるような凄いものでした。景色が違って見えてきました。一言で言うと鮮明に見えます。只管打坐続けてみます。

何にせよ、アタマの思いを手放しにして
「ただやる」ということが、これほど楽で清々しいものなのか、と実感しています。

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