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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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私たちはエデンの園に戻れるか

私たちはエデンの園に戻れるか

旧約聖書によると、神様は天地創造の後、神様の姿に似せてアダムとイブという二人の人間を創り、エデンの園という楽園に住まわせました。

それこそ幼子のような二人は食べる心配もなく、何の心配することもない楽園の中で、無邪気にお互いに男女ということを意識することもなく、お互いをお互いの分身として、無条件に仲良く楽しく生きていました。

ところが、ある日、二人は蛇にそそのかされて、神様にこれだけは絶対に食べてはいけないと言われていた「知恵の実」を食べてしまいます。

知恵の実を食べた瞬間、二人はお互いが男性であり女性であることを意識するようになり、裸でいる自分を恥ずかしがるようになりました。

神様は絶対に食べてはいけないという掟を破った二人をエデンの園から追放します。それ以後、二人だけでなく、その子孫である私たち人間は自ら労働をしなければ食物を得ることもできず、互いに食べ物や富をめぐっていつも争いあいながら生きていくことになってしまいました。

これは俗に「失楽園物語」と言われていますが、実に真髄をついた話だと思わずにいられません。

この話を僕なりに解釈すると、アダムとイブは知恵の実を食べることによって、アタマが働くようになったのです。そして、その結果、二人はバラバラ観を存在の真実だと思い込むようになったのです。

エデンの園では生きるために必要なものはすでにいつも目の前に用意されていました。だから、そこには食うための努力も心配もなく、生存競争もなく、ただただ、無邪気に楽しく生きていくことができました。だからこそ、エデンの園は「楽園」なのです。

こうして、エデンの園を追放されて以来、人間は苦しみの中で生きていくことになったのですが、そのあまりの辛さのために、人々は天の国に救いを求めるようになりました。

そうした中、「神の子」と称される一人の青年が現れて、人々に言います。

「幼子のごとく素直で無邪気でなければ、天の国に入ることはできません。」

幼子はアタマを使わないので、バラバラ観に毒されていません。だから、幼子はみんな誰でも素直で無邪気なのです。

ところが、成長するにしたがって、アタマが働き始め、バラバラ観を持つようになります。それとともに、素直さを失い、無邪気さを失うとともに、あの可愛い笑顔を失ってしまいます。

これでは、とても正常な人間とは言えません。

そうした苦しみの中から、その苦しみの根本原因がバラバラ観にあり、不可分一体こそ存在の真実だということに気がつき、エデンの園に回帰する確かな道を人々に指し示す人が出てきました。

そのポイントは「アタマを手放しにして、不可分一体の存在の世界に自分を投げ入れる」ということです。

それが只管打坐であり、活元運動であり、愉気です。

日常的に、これらの行法を生活の基本に据えて、不可分一体の真実のより深い体得を心がけ、“いのち“を土台にして、アタマを不可分一体の理に沿った方向でみんなのために使いこなしていくことこそが人間に課せられたテーマなのです。

アダムとイブをエデンの園から追放した神様の本当の意図はそこにあったのだと思います。





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コメント

日々、アタマを手放しにして不可分一体の存在の世界に自分を投げ入れては、投げ入れては、投げ入れてはとしています。今朝もそうでした。
それにしても、なぜ神は禁断の実を作ったのだろうか。食べると存在の真実に気が付き、人間がより平和に知恵を活かせる存在になる実を作ってほしかったな~。そしたら、今どんな世界、宇宙になっているんだろうかと、想像するとわくわくします。

神様の恩寵

神の恩寵
禁断の実こそ神の恩寵であり、私たち人間に対する思いやりです。

たしかに、アダムとイブが禁断の実を食べたために、その子孫である私たち人間は苦しみの中で生きなければならなくなってしまったのですが、その苦しみを克服しようとするからこそ、人間は存在の真実に目覚めることができるのです。

禁断の実を食べなければ、アダムとイブはずっと楽園に住んでいられたのでしょうが、恐らくその有り難みも分からないほど面白みのない存在でしかなかったのではないでしょうか。

また、それを食べると、何の苦労もなく存在の真実に気づくことのできる「真実の実」があったとしても、そんなものを食べてすぐにわかるようなものでは、結局、グータラな人間しかできないでしょう。

苦しみがあるからこそ、存在の真実に目覚めることができるのであり、日々存在の真実を生きる素晴らしさに気がつくこともできるのです。
これを神の恩寵と呼ばずして、何と呼べばよいのでしょうか。

僕は、神様の御心は「可愛い子には旅をさせよ」という親心に通じるように思うのです。




「恩寵」という言葉を調べてみると、「神や君主のめぐみ、いつくしみ」とありました。先生のコメントを読んだとき、計り知れない愛を感じました。私達はいつくしまれて日々生きているのですね。みんなのために使っていきたいです。

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