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「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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平常心是道  その1

平常心是道  その1

ある時、趙州が師の南泉禅師に「真実の道とはどんなものでしょうか」と尋ねた。その答えが「平常心是道」(へいじょうしんこれどう:平常心こそが真実の道である)である。

趙州は「その心を目指して修行すべきでしょうか」と重ねて質問した。南泉禅師は「目指そうとすれども、逸(そ)れてしまう」と答えた。

趙州は「それを目指して修行しなかったら、どうして真実の道だと解るのでしょうか」とさらに質問した。

これに対して南泉禅師は答えた。「真実の道は考えれば理解できる(掴める)というものではない。考えて理解できるというものであれば煩悩・妄想になってしまう。逆に理解できないとすれば意味のないことになってしまう。

アタマで真実の道を掴もうとするのではなく、本当にもし、真に疑いようのない真実の道に達したら、そこはあたかも、晴れて澄みわたって、分別の入る余地の一切ない、カラッとした青空のようなもので、ああだ、こうだと言う筋合いなどまったくないところだ。」
趙州はその答えを聞いたとたん大悟した。(無門関第19則「平常心是道」)昇平現代語意訳)

真実の道というのは平常心で生きることです。けれども、平常心になろうとすれば、それ自体が作為であり平常心ではありません。

ところで、平常心とは何なのでしょうか? 平常心とは「常日頃の心構えや態度」、「ふだんの心」であるなどと言ってみても、それだけでは、何のことかわかりません。

では、「日常心」つまり、日常生活で現れてくるいろいろな思いや感情などのことでしょうか? でも、私たちの多くは日常生活において、往々にして、自分勝手な考えや思いに囚われたり、他人を羨み、憎んだり、腹を立てて、自分だけでなく人を苦しめたりしながら生きています。これを真実の道、つまり、平常心とはとても言えません。

それでは、「感情的でなく冷静な心」ということでしょうか? でも、どんなに冷静であっても、たとえば、悪だくみをしていれば、それは真実の道とは言えません。冷静だけでは平常心とは言えないのです。

趙州の悟った「平常心」とは「無心」ということです。無心とは、アタマで作り出した思いや観念や妄想ではなく、自然に湧いてくる心です。つまり、もともとすでに私たちひとり一人に備わって、状況に応じて、自ずと中から現れてくる心です。

たとえば、お腹が空いたら、ご飯を食べたいという思いが自ずから湧いてくる。

人と喧嘩すると楽しくない気分が自ずから現れてきます。

自分自身のせいではなく、誰か他の人のせいで苦しんでいる人を見ると思わず可哀そうになる。

あどけない幼子を見ると自然に心がなごむ。このような心も平常心です。

このように、真実の道である平常心とは、私たち人間がアタマで作り出した思いや観念などではなく、本来、私たちひとり一人にすでに備わって、自分自身を自ずから整えようと働いている心です。

それを盤珪禅師は「親が産み付けてくれたものは不生の仏心一つである。不生の仏心で一切が整う」と言っています。

僕はそれを「不生不滅の“いのち“の現れである真心」と呼び、「真心是道」と言いたいのです。
(つづく)





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