プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

自分というもの  その1

自分というもの  その1

眼が見えても見えなくても、自分は決して変わらない。体や心、さらには外界の状況はいろいろ変わることはあっても、自分自身は決して変わらない。なぜなら、体や心は着物のようなもので、それらを着ている自分自身ではないからだ。自分は体や心のずっと内側にあって、絶対不変で完璧であり、何があっても傷つくものではない。だから、どんなことがあっても、恐れることも心配することもないのだ。

以上は、僕が26歳のときに眼科医に「緑内障です」と宣告された直後に体験した気づきを当時の僕の拙い言葉で表現したものです。

26歳の時の気づきをもう少し詳しく説明してみましょう。

眼が見えないということは、体の一部に不具合があるということであるが、それは自分が着ている洋服に穴が開いているようなものだ。しかし、たとえ洋服に穴が開いても自分自身に傷が付くわけではない。つまり、本当の自分自身は何があっても傷つくこともなく、絶対に変わらない、何一つ欠けるところがない完結した存在である。

それはまったく透明で静寂で何もなく「空っぽ」のように見えるが、実は、どこまでも何かが充満している。

それはまさに般若心経に書かれているように、もともと生まれたものではなく、何かによって消滅するものでもない。何かの条件によって増えたり減ったりするようなものではない。そして汚れたり清くなったりするようなものでもない。不生不滅であり、絶対不変の存在なのだ。

自分は何があっても死なない。いずれ時が来て肉体は滅びても、自分は死なない。肉体が滅びて、自分という意識があるのかどうかはわからないが、自分はどこにも行かない。これは魂(そんなものがあるのか知らないが)の話をしているのではない。肉体、心、魂(それがあるとして)などの着物の話ではなく、それを着ている奥にある本体、つまり、自分のことだ。とにかく、自分というものは絶対不変であり、何があっても傷つくことはない。だから、何も恐れることも心配することもないのだ。

この確信は今日に至るまでどんな状況にあっても微塵も揺るぐことはありませんでした。そのお蔭で、今日まで、文字通り、何物も恐れることなく楽しく生きてきました。


けれども、当時は、「自分は身体や心ではなく、その奥にあるもの」ということには気づいていたのですが、「その“自分”の正体は何なのか」ということが充分にはっきりしていたわけではありませんでした。

それまで、すでに自分というものについて、体験的に存在の事実をはっきりと捉えていたにもかかわらず、そのときはまだ「個としての自分はある」という観念に縛られて、自分と全体の関係ということにあまり関心が向いていなかったからだと思います。

でも、その後心が落着いて、全体との関りがだんだん見えてきて、次第にはっきりしてきたのは、自分が不生不滅の絶対の実在であるのと同じように、この世界のすべてのものが不生不滅の絶対の実在であること、そして、真実は、この世界のすべてがぶっ続きの同じ一つの不生不滅の絶対の実在であるということです。

すなわち、「自分は宇宙であり、庭の1本のタンポポの花が宇宙だ」ということです。

(つづく)






←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

<< 自分というもの  その2 | ホーム | 本当にわかるということ >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 ホーム