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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の実際  その3

川の瞑想の実際  その3
(その2からのつづき)

この川の瞑想によって、この世界の根底、奥にある絶対静寂の世界をはっきりと実感できるようになったら、その次に、自分自身が絶対静寂な存在であることを目標にして、このゼロのラインに意識をずっと保っているようにします。これは努力するのではないんです。自然に、そこにすっと気を向けるだけで、いつもそれを維持することができます。

いままでいろいろな瞑想法をやられた方もいらっしゃると思いますけども、この川の瞑想の説明は誰もやっていないと思います。坐禅の只管打坐にしても、こういうことを抜きにただ坐ればいいというのは違うのではないかと思います。もちろん、ただ坐ることによって、存在の真実を体感された方もいらっしゃるでしょう。でも、時間がかかるし、非常にまれだと思います。こんなにわかり易く、説明されているのは、他にはないのではないかと思います。

絶対静寂の世界は元々あるのです。元々ある状態。気が付いたらずっとある状態。いったん気が付いてはっきりしたら、瞬間的にそこに入れるというか、そこに戻れるようになる。

はい、では、やってみましょう。

姿勢はカチカチでは困ります。手を開く感じだと胸が開いてきますね。これも無理に広げるんではないのです。

最初は目をつぶってやります。目をつぶってやる時に、イメージはかえって邪魔になるので、イメージで静寂、静寂と思わない。

最初、何回か途中で止めて、少しずつこういうふうにしたほうがいいということを注意しながらやって、その後一気に、15分とか20分続けることにします。

足が痛くなれば、崩してもやむを得ないでしょう。そういう時は足をいったん楽にして再度挑戦する、そんな感じです。はい、いいですか。

(川の瞑想開始)

はい、ここで、いったん止めます。
少し説明しますね。最初にCDからザーッという音が流れると、当然そこに注意が引き付けられる。ごく自然なことです。その音がさっとゼロになる。ゼロになった時にすっとするけども、雑音がするところでやると、ちょっとその落差がわかりにくい部分があります。

ですから、ゼロということが明確になるような静かなところで、やったほうがいいと思います。最初の実習では、いろんな音が聞こえている中では、絶対のゼロの静寂を見つけるのは非常に難しいのです。

ですから、静かなところでCDを流して、50からゼロになる環境でやるということですね。慣れてくると、テレビ見ながらだってできるのです。CDなしに外の雑踏の中でもできるのですが、まず最初の練習はできるだけ静かなところでやります。

ゼロになった時に、スーとしたような感じがします。そして再び川の音が聞こえてくる。最初のうちはまた音に注意がいって50。そして、ゼロ。ゼロがしばらくつづいて、また50。しばらくして、またゼロ。こういうことを繰り返してればいいんです。

慣れてきたら、50からゼロになったら、しばらくして、また50にパッとまた上がるんですが、川の音がざーと鳴り始めた時に意識的にこのゼロのところに気持ちを持って行ったほうがいいです。50に注意するよりも、ゼロのほうに注意を持って、自分はゼロの静寂のところにいるんだけど、どこかで川の音が勝手に鳴っているな、という感覚です。50に注意するよりも、ゼロのほうに注意を持っていく。そうすると、だんだんこのゼロの状態、静寂がずーっと持続的にあるということがはっきりとしてきます。

まずは、50、ゼロ、50、ゼロ。それを繰り返しやっているうちに、だんだんゼロのところが長くなっていく。というか、ゼロのところに楽に気持ちを持っていける、そんな感じになってきます。はい、もう1回目をつぶってください。

(川の瞑想再開)

ではもう1回注意します。そのままで聞いていてください。やっているうちに思いが出てきます。だから、これでいいのかなとか、いろんな勝手な思いが出てきます。でも、思いは放ったらかしにしておき、静寂のほうに、ゼロのほうに気持ちを持っていく。というか、楽な気持ちでゼロの静寂を意識している。気を詰めて努力するのではありません。

(川の瞑想終了)

この後、時間長くしてぶっ続きでやります。静寂の部分、ラインを掴まえるということがポイントです

我が家のベランダに出て森や空を見る時、いつもしーんとしています。人間だけがなんか彷徨ったり、ざわざわしている。だけど、人間そのものも大自然の中の一部で、思いや体の感覚などはあっても、その奥はいつもしーんとしているのです。だから静けさがずっと続きます。森の静けさが自分の中に入ってくるというか同調します。

雑踏の中に行っても元々そうなんです。アタマがごちゃごちゃしていること自体が異常。異常事態の火事みたいな感じ。しょっちゅう、自分のアタマの中で、なんか、火事かなんかでサイレンがピッピピッピ鳴っているような、そういう異常な事態になっている。人間の本来の姿は本当に静寂そのものだということに気がつかないのです。

ポイントは、思いが出てきても、雑念が出てきてもいいんです。関係ない。普通の瞑想の指導では、雑念とか思いを何とかこう精神力で封じ込めて出ないようにするのが、静寂の瞑想みたいに言われているんですが、川の瞑想はまったく違います。

静寂というのは、そういうアタマの思いとか、雑念、あるいは、いろんな音が聞こえていようがいまいが、どっちでもいいんですよ。そういうものにかかわりなく静寂の世界がシーンとあって、自分の本体はそういう状態だということです。アタマのほうがちょっと勝手に騒いでいる、といった感じで、それを余裕で見ている。こんなふうになればいいんです。

だから、雑念や何かを何とかするんではないんです。ほっとけばいいんです。「無心になる」なんて言うとね、全く思いが出てこない状態を実現することのように思われているようですが、それはそれとして、僕はちょっと違う考えをもっているんです。

というのは、思いとか、そういう感情とか、あるいは音が聞こえることは当たり前なのです。そうでないと困るわけですよ。石ころではないんだから。瞑想の極意は石ころになることではありません。

ただ、それだけではだめなんです。そういういろいろなものがありながら、土台に、全くの静寂で空(くう)の世界がある。これがはっきりしたら、これは自分そのものだから消えないんです。自分そのものが本当はその土台の絶対の静寂なんです。何もない、空が自分の本体です。

人間の場合はアタマが付いている。だから思いも出てくる、感情も出てくる。だから、どうぞ勝手に出てくださいというわけです。でも、その奥に、絶対の静寂がある。

ということは、瞑想しようと思わなくても、いつも、いわば、瞑想状態でいられるわけです。思いとかそういうものは、普通に出ています。車を運転しながら瞑想をしていて、どっかに車をぶつけちゃったとか、歩きながら瞑想しているうちに、ドブに落っこっちゃったとかはないんです。この瞑想では心がすっきりしている分だけ、物事を冷静に受け止めることができるんです。

普通の生活をしながら、たとえば、普通にテレビ見ながら、瞑想状態でいることができるんです。瞑想状態って言うと、なんか独特の心境で、世間から離れた特殊な世界にいて、何も思いも出てこないみたい、夢を見ているような状態に思うかもしれないけど、川の瞑想で会得していただきたいのは、この自分、この世界の土台は絶対の静寂であり、それが本体で、それが自分の本当の心であり、この世界の本質だということを体得することです。

その状態で、当然人間だから、アタマが働きます、いろんなものも聞こえるし、しゃべろうと思えばしゃべれます。ただ普通は絶対の静寂を意識しないでやっているから、すぐアタマにきてピピピピピッってどっかに行ってしまう。

静寂というのは、探し求めるんではないんです。ある。「ある」ということに気がつくのです。この出発点を間違えると、とんでもない、なんか努力してそういう特殊な状況に入らなきゃいけないと思って、かえってもともとある絶対の静寂を見失ってしまうのです。

誰でもすでに静寂の中にいるんです、本当は。だけど見失っているためにアタマが勝手に、暴走してしまうのです。この静寂を仏教的に言えば、空とか、無と呼ぶのだと思いますが、僕はそれを「いのち」と呼んでいます。

そのいのちの土台、目に見えない“いのち“が、こういうふうに現象として現れている。なんかエネルギーみたいなものかな、なんて勝手にイメージしているけれども、その”いのち“というのは、絶対の静寂というか、何もないものとして、体感できるものでもある。

普通はそれが体感できないと思われているようで、仏教なんかでも坐禅とかして、みんな一生懸命に求めてといった感じで何十年かが過ぎて、とうとうわからずに死んでいく人が多いようです。だから、根本的に静寂に対する見方の角度が違うんです。元々すでにあるんです。一番自分に近いところにあるんです。近過ぎて、アタマでは、逆に気がつかないというか、そんな状態です。

(つづく)





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コメント

続けます

瞑想していていると様々な想いが湧いてきます。それを消そうと努力してた時期がずっとありました。呼吸を見つめ、感じないように、感じないようにと。。
思考を止める。数秒できると、できたような気がして。
でも努力して、毎回挑戦するような気持で瞑想していました。(笑)
 
あるとき ああ・・今、僕はそんな風に思っているんだな。と見つめるようにしたらスーっと消えていきました。それから湧いてくる想いを邪魔にしないでいると、とても楽に続けられるようになりました☆

そして川の瞑想を続けて、静寂が聴こえるような気がして、探していました。そうではなくて「ある」 いのちのな中に「いる」・・。
川の瞑想 続けます。ありがとうございました!

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