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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の実際  その4

川の瞑想の実際  その4

これから愉気の実習に入りますけど、手つなぎをやる時にも、絶対の静寂の状態になるということなしにただ手を握っていてもだめなのです。それなしでは、呼吸を合わせて、波長を合わせるとか、なんとか、勝手に思っているだけで、ただの“ごっこ”なんです。

そういう物理的なことではなくって、静寂というのは言葉を変えれば“いのち”、この全世界を成り立たせている根本、もともと繋がっている“いのち”と“いのち”が、絶対の静寂の中で手をつなぐことによってより確かに繋がっていく。

みんなアタマでどこかにバラバラ観を持って、バラバラな感じがどうしてもあるんです。でも、みんなで手をつなぎ、絶対静寂な世界に入っていくというか、そこに立ち戻る。でも、イメージの静寂ではないのです。そういう状態になって呼吸が合ってくると、元々がつながっているのだから、手つなぎがうまくいく。愉気も同じなんです。絶対の静寂の中で気のコミュニケーションが起こっているだけです。お互いにそういう状態です。活元運動もそこでもっとも自然に出る。

道元禅師が言った只管打坐、ただ坐るということ。それはアタマを手放しにして、“いのちに全てを任せるということなんです。けれども、絶対の静寂状態を忘れて、あるいは、それとは別のところで形だけまねして坐っていても、本当の只管打坐にはなりません。

もし只管打坐が難しければ、まだ活元運動のほうがましなんです。どこかで自分を任せているからです。ただそれも絶対の静寂から離れて、イメージや妄想になってしまうとダメです。静けさの中から出てくる活元運動、本当に、いのちに触れた時は、最も必要な動きが出てきます。

だから、アタマで、いのちは静寂だから、動きもこういうふうにしなきゃいけないかな、なんて、イメージでもってやり始めると変なことになる。任せたんだからって、ガーって狂ったようにやっている人もいますけど、それもまた違います。それはただの妄想的狂乱であり、活元ではありません。

では、川の瞑想から手つなぎ、それから愉気の実修に入ります。

まだ、最初は手はつながない。手をつなぐ時は、右手が左の方の手。そして手の平は上を向いている。手の平は上を向いている。それが正常です。

最初10分間ぐらい川の瞑想やります。一切解説、説明無しです。とにかく静寂。50とゼロのゼロの方にず~っと意識を添わせる。思いが出て来たりしてもそれを相手にしない。

50の音が突然消えて、ゼロの方に気が向いたら、ずーとゼロのラインに気を添わせて、次に50の音が始まっても、それはただ聞こえるに任せておく。そんな感覚です。任せるんです。勝手に音が鳴っているなぐらいの意識で、ゼロのラインから離れそうになってもまたゼロに戻すという感じです。はい、それでは入りましょう。

(川の瞑想の音)

はい、それでは手を繋いで下さい。そのまま瞑想をしています。

(川の瞑想)

息を吸い込みます。そろえます。はい。

揃っていません。もう一度。単純に息を吸い込む。同時に、ハイと言ったら。一緒に吸い込みます。はい。

(手つなぎ・瞑想中)

ご一緒に息を吸います。はい。片目づつ目を開けます。息を吐きます。手を離します。

合掌行気。目の前に両手を出して、3センチ程手を離します。真ん中の1点をじ~っと見つめているとだんだん呼吸をしているのでくっついてきます。

そうしたら指先から手の平全体で息を吸い込む、吐き出す。これも途中で呼吸を揃えます。

こて先の手の平だけの呼吸ではなく、全宇宙の呼吸が指先に入って来て吐いて行く。

静寂のみ。目がくっついたら目をつぶります。

掌の呼吸のみ。他はありません。息を吸い込みます。ご一緒に。はい。掌で呼吸だけです。

ご一緒に息を吸い込みます。はい。そのままお隣の方の背骨に手を当てて愉気に入ります。そのままの静寂。2人組。左の手が肩、で、今合掌行気をしている状況です。

今の静寂を背骨の愉気、行気にしていきます。静寂。

掌全体。指先ではありません。掌全体。行気です。

力を絶対使わない。押し付けない。静寂の掌の呼吸をしていると愉気する側も全身呼吸で、整うように出来ています。

静寂のみです。呼吸。自分がやるんではない、宇宙が働いているんです。

はい、ゆっくり手を離して下さい。

基本的に川の瞑想から、その人の本体である絶対の静寂。頭を超えたその人のいのちの本体に手を触れて行くと顔がすがすがしく物凄く透明に美しくなって行くんです。それが念でやっていると、静寂が愉気していない。だから黒い顔のままです。

愉気する側の背骨の捻じれや色々が自然に取れて行きます。世界がいのちそのものですから、アタマを超えた行気と呼吸、静寂になってくんです。ここが一番のポイントです。

はい、足がしびれている方はそのまま静寂の中で戻して下さい。

今日の瞑想から手つなぎ、合掌行気、愉気。この一連のポイントとなるのが静寂です。アタマで想像するのではなく、元々ある絶対の静寂です。アタマではない本体である静寂。元々静寂なんです。そのいのちそのものの絶対の静寂の中ですべてが整うように出来ている。これは静寂を会得して体感するのに非常に素晴らしい実習だと思います。

では、休憩しましょう。

この後実習をもうちょっと続けますが、ちょっとだけ説明をしておきます。

絶対の静寂、それは別の言葉で言えば“いのち”ということです。仏教ではそれを空であるとか無であると言うようです。要するに何にもない、空っぽなんだと表現しています。でも、僕はちょっと違うと思っているんです。

確かに現象界の方から見たら何も無いんだけども、絶対の静寂というのは現象界を超えたところにあるんです。現象界として見れば、無とか空ということになりますが、絶対の静寂というのは現象界の奥にあって、それを生み出している実在の世界という意味で、僕は“いのち“という言葉で表現しています。そこには生き生きしたものがびっちりと詰まっているんです。

静寂なんです。でも空っぽのようで空っぽではない。無限のエネルギーがそこにある。

ただ観念的ではなくて、別の言葉で表すと「気」なんです。絶対の静寂から気がば~っと出てくる。イメージか妄想か知りませんが、ムードに浸るような頼りないものではないんです。

とにかく静寂という気の流れ。気というのはムードではないんですよ。あくまで静寂なんです。そこにゆだねて行くと言うか、静寂が自分そのものである。それにゆだねる。何をゆだねるか、ゆだねる物は何もないんです。それしかないだから本当は。

それをコントロールしようとするのもまずい。一生懸命、念を持って静寂にならなくちゃというのもまずい。もうすでに静寂なんだ、とそこは外す。それを無理に追っかけようとしてもダメです。

想念が静寂を作るということではありません。元々静寂があるんだから。

はい、ではもう一度川の瞑想から行きます。

静寂がハッキリ安定して来たら愉気に入って下さい。そうでない場合は愉気に入らない。必ず静寂を持って手を触れる。

(瞑想中)

愉気をする人は眉間を使わないようにして下さい。集中という事と静寂とはまた別です。

はい、それでは目をつむってゆっくり息を吸い込んで下腹に整えましょう。

整体は下腹が満ちている。鳩尾は虚。おへその下はつき立てお餅。虚・中・実という法則があります。はい、片目づつ目を開けて息を吐きます。息を吐きます。仰向けの方は横向きうつぶせで正座をして下さい。そろそろ時間です。

瞑想は静寂そのもの。この静寂の中で生きている自分の存在そのものが、呼吸して生きて触れて、全部と繋がりあって、気がすべてという世界です。そこから相手のいのちに触れて行きます。

道元の、仏の家に投げ入れてという事をよくお話するんですが、その静寂の世界に任せきる。活元も同じですね。するとやはり宇宙の法則に沿って自ら整って行く。

馬鹿になれば、つまり、アタマを使わないほどわかるんです。だから馬鹿な人はすごく恵まれてます。変な言い方だけど、変にわかったつもりの人っていうのはやっぱり遠回りしますね。何もかもわすれて任せてしまうということです。

ほんとは非常に簡単な事なんです。わかってみればな~んだと。出来ない方がおかしいではないかと。そういう事なんです。整体にしても自覚のセミナーでやる事にしても、その後の色んな話をしている事、世界平和の実現についても話してますけどもみんな、ほんとは非常に簡単な事なんです。

誰でも出来る。そういうものですから、「何で出来ないんだろう」と嘆くのではなく、自分が何か勘違いしている所があるんではないかなと、検べるという態度が大切です。悩むんでもないし、ただ考え込む事でもなくて、ダメだなと思うことではなくて、それを探究するんです。

わかってみたら何だこういう事だったのか、は~っ、何年間もこんな見当違いなことをやってたんだなって思って愕然とするようなことだけど、それがバッとわかったらね、他の事も全部わかるわけです。

ですから、あきらめずに検べる。検べるという態度で、宿題にして、追及して行って欲しいんです。

気が付いてみたら、こういう事だったんだなと解った人は今度は他の人に対してアドバイスが出来るようになるんです。自分がわかったら、他の人のことが自分と同じようになぜかわかるんですよ。ほんとにわかったら、どっちが早い遅いっていうのは本当は関係ないですね。

(つづく)





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コメント

川の瞑想

記事を何度も読み返させていただいてます。
まるで昇平先生が目の前にいるみたいです。

言葉からまっすぐ真剣さが伝わってきて、心地良い緊張感を感じながら川の瞑想をしています。

先生の言葉をじっくり味わいながら、そこにまた、広がりや深い安心感があるように思います。

境目なく全てに静寂があり、どこまでも広がり、静かに力強く「あぁ、もともとあったんだな」と味わわせてくれた
川の瞑想は、ほんとうに凄いと思います。

日々、続けていきます。
ありがとうございます!!

ゼロのライン

何度も何度も読ませて頂いています。

数年来、瞑想をしながら静寂とはこれのことかな。。あれのことかな。。この感じかなと。雲一つない青空を見上げて、空は何処にあるんだろうと探しているような感じでした。

静寂はいのち。いのちはカタチではない。アタマで探して見つかるものではない。ああ!わかった!と感じても勘違いかな。とまた戻ったり。
玉ねぎの皮を、むいて、むいて検べて何もないことに気づいたり(笑) 

身体の知性というのか。。身体はいつもアタマの働きとは別にまっすぐ宇宙とつながっていると感じられるようになりました。つながるというより本来いのちそのもの。宇宙そのもの。その中にもともとあると言うのでしょうか。

それと言うのも昨年より50年以上苦しんだ喘息がピタリととまって、いのちの理は確かなものだと実感しています。

もの言わぬ身体の動きに任せきる。いのちの波に任せきる。

静寂とは。。と言った瞬間にアタマの世界にむかいます。
でもたしかに 胸の奥に あたたかい、いのちの賑わいを感じています。
言葉にはできません。
ただ、それがそうだとしたら静寂はいつも力強くボクの中にあります。 
これからも 何処でも どんなときでも ゼロのラインに意識を調律し。
何度も検べて過ごしていきます。

静寂は静寂

昇平です。

静寂とは。。と言った瞬間にアタマの世界にむかいます。
でもたしかに 胸の奥に あたたかい、いのちの賑わいを感じています。
言葉にはできません。
ただ、それがそうだとしたら静寂はいつも力強くボクの中にあります。

それは僕が言っている静寂ではありません。

静寂とはただ静寂なのであり、そんなムード的、あるいは、これが静寂なのかと解釈するものではありません。

山のアケビさんにちょっと尋ねてみてください。そうしたなるほど、静寂は静寂以外の何ものでもないことが体験としてわかるかもしれません。

真実は実に単純なものであり、アレコレ思考することによって分かるというものではありません。

いったん静寂に気がついたら、それまで自分のやっていたことが滑稽に思えて、思わず笑ってしまうでしょう。





ありがとうございます!

ありがとうございます しっかり聞いてみます!

静寂

山のアケビさんから よく話を聞き 勘違いから軌道修正できました。
わかったつもりが一番よくないと教わったにもかかわらず、すぐまた気分よくツラツラと考えてしまいました。静寂は静寂以外のなにものでもない。静寂に任せきる。 これからも瞑想を続けます

静寂と思い

昇平です。

静寂は自分の思いとはまったく無関係です。

存在の真実は思い以前にすでに厳然としてあるのです。


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