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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の実際 その5

川の瞑想の実際 その5
(その4からのつづき)

では、あらためて川の瞑想から入ります。

今回は、目を開けてやります。川の瞑想では、目を開けるのと目をつぶったのではちょっと違いがあるんです。

僕にとっては目を開けたほうが圧倒的にやりやすいです。目を開けるといろんなものが見えます。その中に動いているものもあるわけです。例えば、CDの音なしですが、街のなかでこの瞑想をやれば、しょっちゅう車とか人とか動いている。いろんな音も聞こえるわけですね。

だけども、動かないものがある。ここの部屋だったら、例えば、畳であるとか、正面の壁であるとか、特に人間でないもの、生き物でないものがいいと思います。動かないだけではなくて音を出していないもそれをじっと見る。

つまり、そういうものは最初から静寂の中にあるということなんです。ですから、そういうものに意識を向けると、静寂を瞬間的に捉えることができる。動かないもの、静止しているものの音を聞こうとする。当然聞こえないわけです。その時に、静寂の中に入る。

元々この壁が音を出しているわけではない。畳もそうです、目の前の壁や畳をじーっと見て、その音を聞こうとする。すると、途端に静寂が自分の中にポンと入ってくる感覚がある。

僕は街の中でこの瞑想をやる時、最初はまず、動かないものをじっと見ています。周りは動いていても、動かないものに焦点を当てています。そこから静寂を感じると、今度は動いて音を出しているものも、その奥に、土台に、静寂というものがあるということがわかります。

段々慣れてくると、最初から動いているもの、音を出しているものをじっと見る。じっとと言っても、軽く気を向けるという感じです。すると、音も聞こえますけど、その奥に静寂というものが土台としてある。すべての音というのは、実は静寂から現れているのです。特別に、難しいこと言っているわけではないんです。

今この部屋はしーんとしています。外で、突然犬がワンワンと鳴いたとしますね。ワンワンという音は静寂の中から出てきているのです。だから音を聞くというのは、その奥というか、土台に静寂があるということなんです。さらに言えば、現象としての音の本質は静寂だということです。言い換えれば、「音即是寂」(音は即ち静寂である)ということです。

人間の五感の感覚器は現れている音のほうにすっと引きつけられます。それをちょっと切り替えてやるんですね。音にパッと注意が行くんだけど、それをじっと見て、その奥にある静寂に気を向ける。そうすると、明らかに静寂というものが元々あったんだなということがわかる。音は聞こえながらも、完璧なゼロラインの絶対の静寂の中にいるのです。

これは特殊な体験でも何でもないんです。すごい神秘的な体験をしているように思うかもしれないけど、実は、ごく当たり前のことなんです。何でも本物というのはね、実はね、誰でも捉えることができるのです。

ただアタマの妄想で「これはこういうことなんだ」という固定観念があると、その当たり前で簡単なことが見えなくなる。見えているのに気が付かない。でも本当は、真実を捉えることは全然難しくない。誰でもわかる。だから一生懸命求めよう求めようとすること自体が滑稽で仕方がない。

ここのところを、わかりやすく説明しましょう。
野口先生は「雲の上にはいつも青空がある」と言われました。僕流に言えば、「音の奥にはいつも静寂がある」となります。雲は青空から生まれ、また、青空に戻って行きます。同じように、音は静寂から生まれ、また、静寂に戻って行きます。このように、音がしていても、その奥にはいつもその本体である絶対の静寂があります。

僕が住んでいる山の中では、冬雪が積もった朝、起きて外に出ると、シーンとした静寂の世界が広がっています。その静寂の中に、「ピーッ」という鳥の一声が聞こえます。そして、再び、静寂だけの世界に戻ります。その鳥の声は静寂から出て来て、静寂の中に戻るのです。その時、鳥が鳴こうと鳴くまいとゼロラインの絶対の静寂は変わりません。それは白いスクリーンに映写機で動画を映して、また、消す時に、動画は映っていても、いなくても、白いスクリーンは白いスクリーンのままで変わらないのと同じです。

静かな居間で、リモコンでテレビをオンにすると音がします。リモコンで音をオフにすると、静寂を感じます。でも、ゼロラインの絶対の静寂の中に、音が飛びだして来たり、消えて行ったりしているだけで、ゼロラインの絶対の静寂はずーっと続いているのです。その証拠に、リモコンの「有音・無音切り替えボタン」を繰り返し押しながら、音があるなしにかまわないで、画面に集中していると、音のあるなしに関係なく、画面には映像がいろいろ映っていても、ずーっと静寂が続いていることがわかります。これは観念的にとか、イメージとしてということではなくて、事実としてそうなっているということです。

私たちは静かなところにいて静寂を感じていても、いったん音が聞こえると、本能的にその音だけに注意が引き付けられて、「音がして、静寂がなくなった」というように感じる傾向があります。

この川の瞑想で言っていることは、その時に、あえて静寂に意識を向けて、実は、音が鳴っていても、消えていても、それとは無関係に、絶対の静寂はずーと続いているということです。

この絶対の静寂をいつも感じることができるようになると、その絶対の静寂に意識を集中している自分自身も静寂そのものであることに気づいてくるのです。

これはやり方さえ勘違いしなければ、小学生にもわかる容易なことなのです。とにかく、わかってしまえば、あきれるほど簡単なことなんです。野口晴哉先生は、愉気、活元運動、焦点にバッと手が行くというのは、できないほうが不思議だ、何でできないんだ、と言われてますね。ただ、先入観や思い込みがあると、この簡単なことがとても難しいことのように思え、実際にできない。ところが、ふと自分の先入観に気がついて、視点を変えてやってみると、拍子が抜けるほど簡単だということがわかります。そんなものなのです。誰でもできるのが当たり前です。

普通の人はまず難しいというところから、その大変なところを乗り越えて、その境地に至ることができるというようなイメージを描きやすい。トレーニングと訓練を積んだ先にやっとそういう世界が開けてくるみたいに思っています。本当は逆です。一番簡単なものがすでに一番正面に現れています、ですから、その見方の角度が変わって、真実が分かると、「な~んだ」と、そこで思わず大笑いしてしまうのです。

「今まで一体何をやってたんだろう」と、泣き笑いですね。散々苦労してね、それこそ何十年も求めて、それがパンとわかった時には、笑っちゃうわけですよ。おかしくてしょうがない。でも、もちろん、分かったから、うれしくてしかたがないんですが、「こんなことだったのか」と思う。だったら、最初から、簡単なはずだとやって行けばいいわけですね。そういうことをみなさんにはお伝えしています。

これは僕が、なんかすごいマスターであるとかそういうことではない。当たり前の人間だからできてしまうのです。本当はマスターなんていうのはね、周りがそういうふうに奉っていくわけね。本当に分かっていれば、その人自身は、自分はごく当たり前の人間だと思っているはずです。もともと特別な人などいません。

ということで、目を開けて川の瞑想をやります。ごく当たり前のことです。目をどこか、動かないものに、焦点を当てるといっても、睨みつけるというのではまずいんですね。動かないもの、そこにすっと気を持って行く。そして、動かないものの音を聞こうとする。

その時このCDの川の音がばっと切れ、ゼロの静寂になる。それと重なってくるわけです。50の音がゼロになったとき、ふっとこう静寂を感じる。それと動かないものの静寂が一つになっていく。そうすると、なんだ元々ゼロラインには絶対の静寂があるではないかとはっきりわかる。

最初は動かないものの一点だけを見ているんですね。一点の静寂を感じたら、少しずつ周りに視点を動かしていく。そうすると、ああ全部が絶対の静寂だとわかる。すべてが「静寂、静寂」と言っているみたいに聞こえる。変な表現ですけど。

通常は、いろんなものが音を出していると、そっちのほうにアタマが引っぱられてしまうんです。そうすると「みんな音を立てている、騒音だ、うるさくてしょうがない」と思ってしまう。でも、この瞑想をすると、どんなところでも、絶対の静寂の中からそういう音も出ているんだということがわかってくる。

音が聞こえたら、そこに気を集中するんではなくて、それは、放っておく。音だけではなくて、体の感覚や思いもそうです。いろんなものが浮かんできても放っておく。「また自分はこんなこと考えている、だから私は無心になれないんだ!ダメだ!」みたいな感じで思っていると、それこそダメなんです。「思いがまた出ていますね。それは生きている証拠だ」ぐらいに思って、放っておく。出ても構わないんです。

このようにしていくと、すべてがゼロラインでは完全に静寂ということが簡単にわかります。何も難しいことではない。もしわからないという人がいたら、それは、角度が違っているんです。そこに気が付いていないからそういうふうに言っているのです。気が付いたら「なあんだ」自分でもおかしくなります。

はい、それでは、瞑想に入ります。

(川の瞑想開始:目を開けて)

目が疲れてきたら目を閉じてもいいですよ。目はぱっちり開かないで、半眼という感じですね。緊張しちゃだめですね。

(川の瞑想終了)

はい、いいでしょう。足崩してください。

(つづく)





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