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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の実際  その6

川の瞑想の実際  その6
(その5からのつづき)

静寂ということをテーマに川の瞑想をやっているわけですが、今目を開けてやったと思いますけど、目を開けているといろんなものが見えます。それは全くの静寂であり、実は、「空」なんです。いろんなものが見えているわけですけども、その実体は空であるというのがしだいにはっきりしてきます。

ちょっと理屈っぽく説明すれば、静寂というのは音が“ない”ということです。つまり、音はその“ない”という静寂から現象として現れて、そして、また、“ない”という静寂に戻っていきます。ですから、現象としての音の本質は何もない静寂だということです。

言い方を変えれば、静寂というのは “ない”ということですから、「中身空っぽ」、すなわち、「空」であるということです。

同じように、眼に見えるものは“透明で見えないもの”、すなわち、“何もないもの”から現象として現れ、そして、また、“何もないもの”に戻っていきます。

“何もないもの”というのは「中身空っぽ」、すなわち、「空」であるということです。

したがって、静寂=なにもないもの=空=透明で見えないもの、であり、「空」を聴覚を通して認識したものが「静寂」であり、視覚を通して認識したものが「透明で見えないもの」ということになります。

ですから、音を通してその奥にある静寂を実感することも、見えるものを通して透明で見えないものを実感することも結局は同じことであり、現象の奥にある空を実感しているのです。

そして、それは自分の外にあるものだけではありません。視線を反対方向、すなわち、自分の体の内側というか、奥に向ければ、そこに絶対の静寂と絶対の透明な空の世界が広がっていることに容易に気がつくことができます。

何かを見ている自分、あるいは、聞いている自分をどこかで意識しています。また、体の感覚を感じたり、思いも出てきます。けれどもそういうものは現れるままに放っておきます。

そうすると、静寂がはっきりしてきて、思いもぽつぽつとたまに出てくるという感じになって、心が穏やかになり、安らいで、まったく気にならなくなります。そして、とても澄んだ心になっていきます。

そのようになって来た時にはっきりすることは、自分というものの実体、ここに肉体があって、そこに、いろんな思いもあったりして、何かが詰まっている感じがしていたのが、今度は自分自身が何もない。その実体が空であるということがはっきりしてきます。

これが、道元禅師が言った、身心脱落という境地ではないかと思います。でも、境地というよりも、誰でも本当はもともとそうなんです。

道元禅師の身心脱落の体験のエピソードはこういうことです。道元禅師が、もう800年以上昔ですけども、中国の南宋の地に行かれて、そこで、如浄禅師というお師匠さんの下で修業されました。

夜、鐘の音か鳴り、みんなが坐禅堂に集まって坐禅をするわけなんですね。真夜中になってもみんな坐っていた。そしたら、如浄禅師が入って来られて、たまたま道元禅師の近くで居眠りをしていたお坊さんをしかるわけです。

「坐禅中に居眠りをするとは何事だ。真剣にやりなさい。身心脱落せよ」と大きな声で叱ったのです。脱落という意味は「抜け落ちる」ということです。

それで、道元禅師もあらため、真剣に坐りました。どのくらい時間たったのか、道元禅師が如浄禅師の部屋入って、お線香を立てて、礼拝した。そこに仏像か何か置いてあったんでしょうか。

で、如浄禅師が訊ねるわけです。「何しに来たのか」と。道元禅師の言葉は本当にかっこいい。「身心脱落して来たる」と。明らかに、道元禅師は悟られたのですね。身心脱落ということを、観念ではなくて、体感というか体得された。それが、道元禅師の教えの基本になっているんですね。「ただひたすら坐って身心脱落せよ。坐禅は身心脱落である」
というわけです。

その身心脱落というのは、今、みなさんのうちの、少なくとも何人かは体験された、その状態です。自分の身も心もその中身は空っぽである。空である。ただ澄み切ったものが、透明なものが、そのままあるだけだ。そして、いろんなものがあるけれども、みんな中身空っぽ、空である、ということです。

人間はいつも「何かがあるはずだ、あるはずだ」と思っているわけです。そう思っているから、本当のことに気が付かないけども、本当は何もないんだ。いろいろな現象や存在は何もないところから立ち現れている。それがわかってくる。この中にもわかった人がいると思います。

難しいことではない。非常に単純なことなんですが、このように、わかりやすく、説明したのを僕は聞いたことはありません。

昔からみんな、坐禅の本とかいろんな記録を見ても、悟ったというような体験はあっちこっちにあります。すごい修業をして、大変な思いをして、それで、何かがバーンと外れて悟った。中身空っぽである。空であるというようなことは書かれている

けれども、その身心脱落ということが文字通りどういうことであるかということはあまり説明されていない。今みたいに、こういうような、川の瞑想ですね、そういうものを通じて体験できるというふうに説明したものはありません。

偉ぶって言っているわけではなくと、事実として言っているのです。そして、誰でもできることなんです。

道元禅師が「ただひたすら坐って身心脱落せよ。坐禅は身心脱落である」と言われたのは、ご自身の心身脱落の体験から、「正しい態度で坐禅をすれば誰でもできるのだよ」ということが根底にあるのだと思います。実際に、道元禅師にそういうふうに言われて心身脱落を体験されたお弟子さんもいると思います。けれども、はっきり言って、少なくとも現代人には、それだけでは足らないように思います。

只管打坐ということで、ただひたすら坐りなさい、全てを任せて坐りなさい、自分のアタマの思いを追っかけないで、ただアタマの思いを手放しにして座りなさい、と言われます。

それは間違いではないですが、いろんな妄想が渦巻くような状態で、自分はアタマの思いを手放しているつもりでも、本当にアタマの思いを手放していることができるのか、疑問です。

只管打坐。思いを手放して坐る。そのこと自体が身心脱落だというふうに説明されています。確かに思いを手放しにして坐相をしっかりと守り、任せているという意味では、それでいいんです。

だけれども、全てが静寂の中から起こっている。全てが空から、無と言ってもいいですが、何もないところから現れているんだということを、体感しながら坐っていなかったら、それは本当の意味でのアタマの手放しにもならないし、ただ観念的に「坐ることがすなわち心身脱落だ、悟りだ」と思っているにすぎないのだと思います。いろいろな異なった考えはあるとは思いますが、僕自身の体験からはそう思うわけです。

それはそれとして、こういうふうに、畳があるけども、そこを見ていると、ただ静寂しかない。そこをさらに見ていくと、畳という形には現れているけど、その奥には、空があるだけです。

そういうようなことがはっきりして、見えているものだけではなくて、見ている本人自身も空なんだということが、観念ではなくはっきりわかる。それを確認しながら坐っている。

そこまでいかないと、といっても、そんな難しいことではないんです。誰でも10分とか15分の中で体験できるわけです。それをきちんと言わないと、「ただ坐りなさい」というだけでは、本当の意味では、道元禅師が言われた身心脱落にはならないだろうと思います。

言葉がちょっとかっこいいもんだから、どこかのお坊さんが「ただ坐りなさい」なんてやっているというのを聞いたことがあります。でも、「ただ坐る。それが悟りだ」と言われても、何の実感もなく、何にもなりません。

内山興正先生は「アタマの思いを手放しなさい全てを任せて坐りなさい」と的確に言われています。実際に、きちんと、アタマの思いを手放すことができるように、綿密に指導されたのだと思います。

坐禅だから動かないんですけども、活元運動みたいなもんですね。そこまでは、間違とはいないけども、その先が、静寂とか、空。それを自分自身の実体なんだ。周りの世界もそういう空の世界から立ち上がっている。それを体感しながら坐っていないと、かえって観念的な坐りになってしまい、本当の意味での、只管打坐にはならないと僕は思います。

身心脱落というのが一番難しいこととされているわけです。そんなものではない。では、ただ坐っていればそれが身心脱落かというと、そうでもない。そこが、自分が空だということ、これがはっきりしない限りはどこまでいっても自分というかたまりに固執するわけです。

自我。アタマで何とかしなきゃと、どこまで行っても、自我が抜けきらない。自分の本体が空であることを実感していなければ、どこまでいっても、自分と思っているもの、つまり、自我にしがみつきます。

かつての僕のように、普通の人は、なんか自分というころっとしたものがあると思っているわけです。単なるアタマの思いだけではなく、体も心もなんかころっとしたもの、これこそが自分だと思っているわけです。そのころっとしたものの奥を見て自分の本体そのもの、つまり、空であることを観るというのが川の瞑想です。

(つづく)





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コメント

視点を変えると

今まで「誰が見ているの?」と問われると「自分が見てる」と思っていましたが、あるセミナーのご指導で「自分が見ているうちはダメなんだよ」というような事を昇平さんがおっしゃられて、がらっと視点が逆転しました。そしてそれまでは周りの言動に感情で反応したり、周りはどうであれ自分は静かれあれば良いと思っていました。でも最近ふっ、と気づいたことは「相手もずっと静かだったんだ」という事です。視点を変えるってすごい事ですね。

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