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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の実際  その7

川の瞑想の実際  その7
(その6からのつづき)

音が鳴っているのに、その奥に静寂を感じる。また、そこに見えているものの奥に、“見えないもの“がある。「見えているものが、同時に見えないものである、というのはどういうことか?」ということですね。たしかに、ここまで、常識的には、変な話をしているわけです。

それについては、僕は、人間の五感は人間が本来持っている能力のごく一部にしかすぎないのだと思うのです。普段はその五感で捉えた情報をアタマで認識しながら生きていると思いがちですが、五感以外にも情報を得る感覚器がいくつもあり、それを認識する脳の仕組みも他にあるのだと想像できるのです。

たとえば、一方では目で見て、つまり、視覚とアタマによって、こうやって見えている。けれども、別の感覚器と認識脳で見ると、これが透明なものとして見える。また、普通の耳、聴覚で聞くと、音がしている。でも、他の感覚器と認識脳では静寂を捉えることができる、というようなことがあるのではないかと思うのです。

たとえ話のように聞こえるかもしれませんが、ここに不思議なメガネがあるとします。1本のタンポポの花を、現象が見える左のレンズで見ると、姿がそのままに見える。でも、本質が見える右のレンズで見ると、透明なるもの(空)として見えるのです。普段は左のレンズしかないと思い、すっかりそれを頼りにして、見えている現象の姿だけしかないと思っています。けれども、本質が見える右のレンズがあることに気づき、そちらで見ると、透明なるもの、空と見えるのです。右のレンズがあることに気がついて、それに慣れてくると、1本のタンポポの花を見ても、現象のそのままの姿と本質の透明なるもの、空が二重に重なって見えるというわけです。

左のレンズを現象が見える肉眼。右のレンズを本質が見える“心の眼”とでも呼べるのではないかと思います。つまり、肉眼で見ると、姿がそのまま見え、心の眼で見ると、本質の空が捉えられるというわけです。

五感のほかにも感覚器と対応する脳の認識部位の他に、別の感覚器とそれに対応する別の認識部位があるということは作り話のように思えるかもしれませんが、決してそうではありません。

野口整体を実践している皆さんは、すでにある程度それを使いこなしているのです。それは「気」です。手が(自分の、あるいは、他の人の)必要なところにすっとくっついていく。背骨の鈍っているところが黒く見える、相互活元運動でお互いに共鳴し合う、などなど。

みなさんはある程度そういう気の世界を体験しています。野口先生が言われている気というのは、それは明らかに神秘的なものではなくって、五感以外の確かなものとして、気をちゃんと感じられる。誰でも生きている以上は、それは働いているんです。ただ、アタマが五感を通してアタマで認識できるものしかないと思っているので、目で見えたものだけがあるとしか思ってない。だから、野口整体を本当に知らない人は、「そんなのは超能力じゃないの」なんて言うのです。

野口先生の場合は、幼い時に声が出なくなった。ジフテリアです。それで、苦しまれて、それを何とか全力で打ち破ろうとした時に、別の感覚器が、元々働いてたんだけどそれがバーッと活性化したということだったんだろうなと推測しています。

気の世界というのは単なる観念としてじゃなく、事実として明らかにあるんです。それをあるということがわかっただけじゃなく、僕らが目で見て、ここに茶碗がある、あ、これはちょっと冷たいなとか、それと同じような感じで、野口先生の場合は、気というものを確かな感覚として、使いこなされていたんだと思います。だから、先生は「誰にもそれがあるんだ」ということに気がついて、それを使っていけば、だれでも健康になっていく」と言われたのです。

ところが、現代人は「五感とアタマの認識力、人間の能力はこの程度なんだ」と封じ込めてしまって、こういう能力は特殊な人だけにある特殊能力であり、普通の人間は頼りなく、ひ弱な存在であり、薬や注射など外部からの助けがなくては生きてはいけないと思っています。そして、現代科学をすっかり当てにして、もともと誰にでも自分で自分を整え、健康を維持していける素晴らしい能力が具わっていることにも気がつかない。だから、もちろん、活用もしないのです。

だけど、現実にこうやって生まれてくること自体、呼吸していること自体、みんな五感だけの働きではない。五感を通してアタマで認識できるものとは違うところの働きがあって、こうやって生きているわけです。五感はごく一部でしかないのです。

むしろ、気とかそういうもののほうがより確かです。距離が離れていても通じるんです。直接見てなくても、壁を通してでも通じ合うことができる。これは普通特殊な能力と思われているけれども、実は、当たり前の能力なんです。

ですから、もう一回そこに立って、人間とは何なんだと考えてみるべきなのです。自分の能力を自ら封じ込め、限定したところで、野口整体で言われていることを捉えようとしても捉えきれない。だから難しい、難しいとなってしまうわけです。生まれつき特殊な能力を持った人だけができるようになるんだろうとか、特別な訓練をしてそういう能力を開発しようというようなことになるんですね。

でも、「そんなようなことやらなくても、元々誰にもあるんだよ」というところから出発しないとダメです。そうでないと、修行して、「自分が」そういう能力を身につけたいという、「俺が俺が」の競争になってしまう。俺はすごいだろうと。こんな力があるんだよ、ということになりがちです。

そんなものが一体人間の何の役に立つんだ。本当の幸せということから言うと、言葉では、「自分を向上させるのだ」などと、美化してるんだけど。それを一枚引っ剥がすと、「自分が人よりも勝っていたい」というところが見えてくるんですよ。一言で言って、「グダラナイ」。

それは余談ですけども、「ほら、見えるものの奥に、透明で見えないものがあるでしょう」なんて話を、普通の人が聞いたら、なんて言うでしょう。「この人は特殊能力の持ち主なのかな?」と思うかもしれませんが、僕が言おうとしているのは、誰でもそれが当たり前にならないと本当の生きている甲斐がないっていうことです。実は、みんなそういう能力を備えており、その力によって生きているけれども、それをこの社会の洗脳によって、無意識のうちに封じ込めているのだ、と言いたいのです。

いずれにしてもいきなり、「空」というようなところに行かなくても、まずは「絶対の静寂」ということがはっきりしていくと、自然にそういうものはわかってきます。ただ、静寂と音と空間、それは違うものみたいな観念でそれらを別々のものであると区別していれば、本質に気がつきにくいのです。静寂、それは透明な空間や空に通じる、ということがアタマに入っていると、そのうちに、「なるほど、みんな同じことなんだ」ということを体験的に理解できると思います。

大切なことは、できないと決めつけないこと、そして、ほんとは簡単だということ。それから、絶対の静寂ということは、別のほうから言えば、空ということでもあるのか、ということをアタマに入れておくということです。それが今わからなくても、そのうちに、あ、なるほどこういうことかと解ります。いっぺんにここで全員が「みんな空です」とならなくても、ひとりひとりの気づきの歩みというのがあるのです。でも、そのように思い込もうとするのではありません。

ということで、もう一度、川の瞑想に入ります。

今回の川の瞑想は長いです。25分くらいやります。時間が長いと、途中でだらけるみたいな、眠くなってくるような人は、気をしっかりとしてやっていくとより深く入っていきます。

整体の実習では、普段、この川の瞑想の時間をあまり取ってないと思うんですけども、家でやる時はできるだけ長く、最低20分、できれば50分やってほしいわけです。そうすると深まり方が全然違うので、さっき言ったように、あ、本当に何もない。体もない、消えちゃった、というようなことを当たり前に体験するようになるでしょう。

でも、そういうことを興味本位でやることではない。あくまで、五感を超えて、自己の本質、存在の真実を体験的に捉えるのだという気持ちでやってください。「見えるもの」が「見えないものである」、透明な空間でもあり、空であるというのは単なる観念的なことではないんだということです。

NHKで最近やった番組ですが、交通事故で脳に損傷を受けて、突然絵を描きたくなった。描いてみたら、緻密な幾何学模様で、すごいものが描けた。それ以来、描きたくて描きたくてしょうがない。いいものが描けたからもっと描いてみようとかそういうんではない。描きたいという気持ちが中から湧きだしてくる。それまで絵なんか全然描いたことがなかった人がそんな絵を描いてるわけです。

そういうようなことが、絵だけじゃなくって、アタマにいろんな数式が浮かんでくるとか、世界中にいろんな症例が見つかっているんです。やったことがないのに。何でできるんだと不思議でしょ。私たちの脳の中にはものすごい能力があるんです。でも、その一部しか使ってない。特にあなたは。いや、みんなそうなんです。すごい天才なんて言われている人だって、脳のごく一部しか使ってない。何パーセントも使ってない。ほとんど99パーセントは使ってない。

野口先生なんかは普通の僕らから比べるとすごいですよ。本を読むスピードが1ページ数秒。で、それを30年たっても一字一句、全部覚えている。昔の漢文とか。そういう難しいのを。和田先生もそういう方でした。

脳のある部分が開けているのです。というか、実はそっちのほうが当たり前だということです。野口先生にしても和田先生も同じ言い方をされている。できるほうが当たり前なんだと。できないのは自分で意識的にアタマを変な使い方をして、閉じ込めているからだと。だから私たちはまだまだ可能性があるのです。お互いによかったですね。

みんなすごい能力があるということです。感覚器も必ずしも五感だけではない。気なんていうのはごく当たり前の世界。ものが透明に見えたなんていうのは、昔から伝わっている坐禅の悟りの体験談を読むと、あちこちで出てくる。

「ここにこのようにあるのが何で空と言えるんだ」と最初は思うわけです。一体何を言っているんだと。あるいは、逆に、それをもって「悟りだ、悟りだ、とても凡人の及ぶところではない。すごいことを達成されたんですね」みたいになって崇め立てられているわけです。でも、それは誰でもできると思っていると、そのうちにごく当たり前にいろんな現象が起きてきます。

でもそれは決して自分が素晴らしいからじゃない。人よりも優れているからでも何でもない。ただそういうことが起きるんだなということです。他の人もそういう能力を持っている。誰だってできることが、自分にもそのうちのひとつが起きたんだな、と自然に謙虚でいられるわけです。だから、誰でもただの人。野口先生も和田先生もただの人なんです。

ただ、野口先生にしても和田先生にしても、ものすごく愛情深い方でした。キリストの話もしましたけど、とにかく愛情深い方々です。ひとりひとりの存在を本当に認める、それはすごいです。努力して認めているんじゃなくて、本当に存在として認めて、大切にする。このような方々に出会って、自分の目が開けました。

奈央先生もそれでいのちを救われたのです。だから野口先生に対してはもう信仰とかそういうんじゃなくって絶対的な信頼があるわけですね。ひとりの人間としてはっきり認めてもらった、どんなに生きていてよかったと言えるかということですね。それでここまでやって来たんですね。僕にとっては和田先生がそういうお方です。

(つづく)





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