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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の実際  その8

川の瞑想の実際  その8
(その7からのつづき)

ここで、質問します。「自分とは何ですか?」 しばらく、時間をとりましょう。

(間)

きっと、アタマの中で、「名前」とか、「自分」とか、「いのち」とか、「人間」とか、「日本人」とか、「生物」とか、「動物」とか、いろいろ思い浮かんだでしょう。

たしかに、世間では、一応それで質問に正確に答えたように思われるかもしれませんね。でも、あくまで、「世間では」という注釈が付くんです。でも、そんなものは、ただの一応の約束事で言っているだけです。例えば、「フランスとスペインの間に国境がありますか」というのと同じです。国境があるというのは単なる約束事にしか過ぎなくて、本当は国境なんかどこにもなくて、ぶっ続きなんですね。

そういうふうに人間が観念で約束事としてとりあえず取り決めているのであって、真実そのものではないんです。真理そのものではない。そういうことからいくと、「人間」と答えていても、約束事にしか過ぎない。「いのち」と言っても、それはこのグループだけで通用する約束事にすぎない。実物そのものではない。では「自分とは何か」と追及していくと、言葉では表現できなくなる。言葉というのは単なる、いろいろな約束事とか、言葉で外から規定しているだけで、それでは実物を表現できない。

禅の中でもそういう話があります。ある人が「自分とは何か」と問われ、10年とか20年、それを考えたり坐禅をしたのです。そして、最後に到達した答えは「言葉で表現することはできません。一言でも説明したら実物とは違ったものになってしまいます」というものでした。そういう答えしか出なかったわけです。

で、お師匠さんは「まあ、それでいいよ」と言ったんだけど。「言葉で表現することはできない」というのはただ「わかりません」と言っただけにしか過ぎない。「言葉で表現できるものではない」というそこまでは非常にいいんだけど。

では「何なんだ? 以前は、何でも言葉で説明できるものと君は思っていたね。お経の本を読んで、一生懸命、あれこれとアタマで考えてきたよね。でも、そういうことでは、自分自身はもとより、存在のひとつも捉えることはできない。それがわかったことは素晴らしい」と。でも、話はそこで終わっているのです。

「自分そのもの自体は言葉では規定することはできないんだ」と気が付いたことは素晴らしい。普通はそんなことにも気がついてないんです。「いや、自分は人間ですよ」、「いや、いのちですよ」、「いや、空です」とか、概念をくっつけて、実物自体にただラベルを貼っているだけです。

ラベルはそのものではない。紙に「キュウリ」なんて書いて何かに貼ったら、それがキュウリになるわけではないんです。そもそもラベルはその実物そのものではない。ただの紙です。そういうことにも気がつかずに、みんな、大騒ぎして「ああだこうだ」とやっている。では、そのもの、「それはただそれ」と答えるしかない。

でも、それはある面では答えにもなっていない。「では、何なんだ」。さらに追及していくというところは、その禅の本には出ていないんです。でも、この川の瞑想をやっていけばちゃんと答えが出ます。それをどういう言葉で言えば正解になるか。言葉で言ったら実は正解にはならない。ラベルにしか過ぎないから。

みんな言葉で答えられると思っているわけです。そこからもうすでに違っている。では、言葉で言わないでそれを表すにはどうするんだ。なんかテクニックがあるのかな、と、またアタマで答えを出そうとする。だからそういうものは全てアタマの世界のことであって、体得ということと全然違う。

「よっしゃーっ、やるっきゃない!」とキックして、バイクのエンジンをかける。「ブルブルッ」となるんだけど前に進まない。ギアを入れていないからバイクは進まない。一生懸命キックして、エンジンがかかっても、バイクは前に進まない。エンジンが空回りしているだけです。

まあ、言葉でどういうふうに表現しても、僕が禅のお師匠さんだったら「だめ、だめ」と言うんでしょうね。そうするとどんどんどんどん追い込まれていくわけです。後はもう坐るしかないと。もはや言葉ではだめなわけです。どうやるんだと。で、またアタマで考えるわけね。そんなことやっている間はいつまで経ってもだめなんです。だから坐禅で悟るということは非常に難しい。時間もかかります。

そんな世界です。それはそれで一つの文化ではあるかもしれないけども、そんなもので世界は救われない。時間の無駄です。

それを、この川の瞑想をやっていけばちゃんと答えが出ます、そのうちに。だから心の宿題にしておけばいいと思います。すぐ「はいそれは私です」とか「いのちです」なんてやるのは、だいたい学校の先生タイプが多いんです。あと坊さん。人に教えるという感じの人。アタマで言葉にすればそれが本物だと思っているんですね。

では、川の瞑想に入ります。

最初は目を開けてやったほうがいいと思います。時々疲れたら目を閉じるけれども、閉じっぱなしというのはあんまりよくないように思います。では入ります。

(川の瞑想開始)

目を半眼にして落とす。

もっときちっとしてね。背筋をまっすぐに伸ばして。静寂に集中する。

はい、静かに体を動かしてください。

(川の瞑想終了)

大変だなと思うのではなく、楽しみにしてください。また違う世界が見えてきます。

普通は、いろいろな音とかなんかあると、その音に気を取られて、そういう聞き方になっているので、音がうるさいなとか、いろいろ思ったりもする。そういう傾向が強いと思います。ところが、聞いているようで聞いてない。どっかでそういう音がしているというのは意識はしているけれども、そこにとらわれてもいない、というふうになっていくと、全然そのうるささみたいなものを感じなくなっていく。そしてその元にある、絶対的な静寂、土台というか土の部分、絶対の静寂は変わらない。しっかり感じられてくる。

今までは、瞑想しなさいとか、したほうがいいよとか、ちゃんとやってくださいと言われて、なんか義務みたいな感覚でやっていた人が多いのではないかと思います。これではだめなんです。苦行になってはダメです。やっていることが心地よくないとダメだと思います。

ちゃんとした瞑想だと、足が痛くても気にならないというか。ただ痛いなと思いながら、支障なく、瞑想が自然に流れていくみたいな感じになっていきます。

非常に心地よさと安定感を感じる。その理由というのは、いちいちいろいろな思いに引きずられない。それから、物音とか、体の痛さとか、そういうものに引きずられない。そういうことも非常に心が楽になるし、何よりも、絶対的な静寂というもの、その中に浸っている。いろいろな物音とか聞こえながらも、絶対的な静寂の中にある。絶対的な静寂の世界というのは、安らぎそのものなんです。気もそうですね、澄んだ気は安らぎです。同じことなんです。

ですから、当然、瞑想をやりたくてしょうがなくなるんです。もういくらでもやっていたい。暇さえあればという感じで、楽しさを感じるようになっていかないと、というか、そういう瞑想でないとだめだなと思います。

その安らぎと安定感はなかなか普段の日常生活の中では感じられない。川の瞑想をやると、こんな楽しい安らいだ世界があるのかと思います。普通は坐禅というと、「きちっとやる、修行でございます」みたいな感じでね。まじめ腐った顔してやっているわけです。それは、それでよいのですが、川の瞑想は苦行になっては、もはや川の瞑想ではありません。

気抜けになるのとは違う。全然違う。気抜けでは本当に楽しめないし、安らぎがない。やっぱり集中してなきゃだめです。その楽しさがあるためには。ボーっとしていたんではただの居眠りになってしまう。だから姿勢はとても大切です。

背骨、それと視線ですね。視線が、気張った感じで目をぱっちりでやるとまずいんです。かと言って、目をボーっとさせているわけではない。空、その静寂に、動かないものにきちっと目が合って、そこの音を聞き取ろうという方向性がないと、気抜けになってしまいます。

今回みなさんだいぶはっきりしたと思います。それが、いつの間にかまたマンネリになっていかないように、いつも真剣勝負、ある面で必死に瞑想をするのです。気張った必死さではなくて、すっきりしたというか。何があって、動じないみたいな、そういうところでの必死ということです。そんなような潔さで、川の瞑想に向かうということです。

(つづく)





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