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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の実際  その9

川の瞑想の実際  その9
(その8からのつづき)

般若心経に「色即是空 空即是色」という言葉があります。ほとんどの方は、せいぜい、何かありがたい、凡人には計り知れない意味があるのかな、と思うだけで、お経の飾り文句のように感じているのではないかと思います。

仏教にはその教えをあらゆる角度から説明した膨大な量のお経があります。でも、「色即是空 空即是色」というこの言葉こそ仏教の心髄中の心髄であり、これほど、自己の本質と存在の真実を的確に表しているものはありません。

この場合、「色」というのは、直接的には「眼に見えるもの」、「空」は「眼にみえないもの」という意味です。したがって、色即是空は「色は、すなわち、空である」ということで、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないもの」ということになります。空即是色は「眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるもの」ということです。

これはまさに川の瞑想によって体感できる自己の本質と存在の真実に他なりません。川の瞑想では、最初に音を聞き、次に、その音の奥にある静寂の存在を体感します。そして、音は静寂より生まれ、また静寂に戻ることを体感します。それは「音即是寂 寂即是音」、つまり、「音は、すなわち、寂であり、寂は、すなわち、音である」ということです。

川の瞑想では最初は聴覚を通して、「音と静寂の世界」を、次に視覚を通して、「眼に見えるものと眼に見えないもの世界」を体感します。そして、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないものであり、眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるものである」、すなわち。「色即是空 空即是色」を体感するのです。

ついでですが、般若心経のこの文句で使われている「色」は直接的には「眼に見えるもの」、すなわち、「形姿を持って存在するもの」という意味ですが、ここでは、この世界に現れているあらゆる現象や存在(たとえ見えなくても)を表しています。

同様に、「空」は、直接的には、「眼に見えるもの」、すなわち、「姿形を持たないもの」という意味ですが、ここでは、それだけではなく、この世界のあらゆる現象や存在を顕現している、その奥、あるいは、内側にある本質を表しています。ですから、仏教で言う「空」はこれまで僕が使ってきた“いのち”と同じであると言ってもよいのではないかと思います。


このように、川の瞑想は単に「いい気分になって、くつろいで、安らぐ」など、精神を安定させるといったことを目的にしているのではありません。まさに、存在の真実を体感し体得することが目的です。しかも、それが、誰でも簡単にできると言うところが川の瞑想の一大特徴だと言えるでしょう。

そういう意味では、川の瞑想をして心が安らいだ、落ち着いたなどということは同然ありうることではあっても、あくまで副次的な効果にすぎません。このことを肝に銘じて、誤解のないようにしてください。

なお、川の瞑想の実習では、CDの川の流れの音のオン・オフに耳を傾けるとともに、眼を開けて、畳や壁など静止して、音を出していない何か外部のものに眼を合わせてその静寂を聴こうとすると、聴覚的な川の流れのオフ、つまり、静寂と、たとえば、視覚的な畳の静寂が合わさって、より静寂を聞き、見ることができて、はっきり確認することができます。

これを繰り返していると、CDなしでも、眼を、例えば、畳に合わせて、その静寂を見ようとすることによって、畳だけでなく、周りのすべてが静寂そのものであることを体感できるようになります。それに熟達してくれば、CDなしに、ただ周りの音がしていないものに視線を向けるだけで静寂を持続的に体感できるようになります。

そして、それに熟達すれば、音が出ているものを見ても、その奥に静寂を持続的に体感できるようになります。そしてついには、町の真ん中の通りに出て、周りを見ても、騒音の真っただ中で、ずっと静寂の中にいることができるようになります。

そうなると、テレビを見ていても、人と話をしていても、静寂の中にいられるようになります。ですから、心はいつも安定し安らいですっきりしています。これが本当の「平常心」です。日常生活で、いろいろなこと、いろいろな思いに振り回されて、やっさもっさしている心はとても「平常心」とは呼べません。

自分自身を振り返って、何かで心が動揺したり、アタマに来たり、心配性であったり、悲観的であるなど、しょっちゅうマイナス感情に振り回されながら生きているという人はこの川の瞑想を真剣に実践することをお勧めします。とにかく、貴重なかけがえのない人生をそんなつまらないことで自ら粗末にしながら生きていくことほどもったいなく愚かなことはないのですから・・・。

もう一つ、川の瞑想の延長で有効な方法は、川の流れのCDを聞きながら、眼を開けて自分の外を見ると同時に、その逆方向、つまり、自分の眼の奥の奥の方をずーっと見ると言うか、意識するのです。

そこに、何があるでしょうか?視覚的にはそこには何もありません。同時に、聴覚的にも何もありません。まさに、静寂・透明であり、空です。それが自分自身の本体です。それは僕が26歳の時に体験したものです。自分の体の感覚はもちろんあります。思いもあります。目の前のものも見えています。CDの音も聞こえています。でも、自分の体や心の奥には静寂・透明な空があるだけです。なにがあっても、それは絶対に変わるものではありません。

慣れてくると、CDも必要でなくなります。僕がよくやるのは、庭で空を見上げながら、同時に、視線を逆にするような感じで、自分の眼の奥の奥の方を意識することです。そこはいつも絶対の静寂であり、透明な空間です。その透明な空間には枠もありません。なにか、どこまでも透明な枠のないレンズのような感じです。その透明なレンズに外界の空が浮かんで見えています。空に雲や山が見えていると、よりやりやすいと思います。

この実習をやるときは、通りや何かではあぶないので、必ず公園や庭、あるいは、ビルの屋上、海岸、川の土手などで動かないでやってください。僕は、電車で窓側の席に座れた時は、窓から外を見上げながらやっています。そうすると、どのように見えるかというと、静寂で透明なく右である自分の中にすべての存在が入っているように感じます。

日頃の感覚では、自分は小さなアリのように、この広大な世界の中のちっぽけな存在だと感じていませんか? 確かに、広々とした戸外で自分の体とその周りを見ると、そう感じるかもしれません。でも、自分の眼の奥、その奥の自分の本体の中にこの世界、この宇宙全部が入っているのです。本当の自分は宇宙大の大きさなのです。

このシリーズのどこかで、特殊な二つのレンズがついたメガネの話をしましたが、それは以前ブログに書いた、「奇妙なガラス板」とよく似ています。この世界をそのガラスの右側から見ると、みんなバラバラにみえるのですが、左側から見ると、みんな一緒、一つに見えるのです。

私たち人間は肉眼の眼で表面的に見えるバラバラの世界と心の眼で見たこの世界の本質である不可分一体の世界という二重の世界の中で生きているのです。自分というのは個として生きながら、同時に、その本質である、この宇宙をすっぽり包んでしまうほど大きな“いのち“を生きているのです。つまり、別々でいながら、みんな一つという二重の存在性の中で生きているということです。

だから、肉体が死んでもどこにも行きません。いまここにある本質である空、“いのち“の世界から飛び出てどこかに行くわけではありません。簡単に言えば、自分の本質は“いのち“なのですから、どこにも行きようがないのです。だから、肉体が活動している時も”いまここ“にいて、肉体の活動が止んでも”いまここ“にいるのです。つまり、”あの世“というものは”いまここ“にあるのです。

(独り言:愛する人や親しい人がなくなっても、いつまでも嘆き悲しまなくてもいいじゃないか。ふと寂しく思う時もあるかもしれないけれど、死んでもいつも一緒にいるのだから、それで充分じゃないか・・・。)

もう一度、川の瞑想の目標を段階的に説明しましょう。

まず、いろいろな音の奥に静寂があることが分かった。いろいろな音があっても、いろいろな思いは出てきても、ずっと静寂の世界に留まっていることができるようになった。では、その次の段階ではどうするかということです。

それは視覚も使って、もちろん、いろいろなものが見え、音がし、思いや体の感覚がありながら、そのすべての奥に、まず、すべてが完全に静寂であること、次に、自分の内側に視線を向け、自分自身が絶対の静寂であることを体感することです。

そして、次は、外にあるものがすべてその奥は透明で空であること、そして、次に、自分自身が透明で空であることを体感することです。そして、その次の段階はCDなしでそれぞれ体感できるようになることです。

それから、川の瞑想を長時間やっていると、足がしびれてくることがあります。けれども、川の瞑想がきちんとできていれば、足がしびれてもそのまま放っておけば、なんの支障もなく、絶対的な安らぎの中で、快適に川の瞑想を続けることができます。このことがわかれば、一日中でも続けることができるような感じがするでしょう。

これは坐禅でも同じです。足が痛くてガマンできなくなるのは、やり方がまずいのです。足がしびれていても相手にしなければよいのです。アタマの思いも同じです。これが楽にできるようになると、思いも次第に出てこなくなって、心が澄んでくるようになります。この状態ですべてを任せて坐っている状態こそが本当の只管打坐なのだと言えるでしょう。

そういう状態になれば、道元禅師の言われる「心身脱落」と言えるかもしれません。ちなみに、道元禅師は『正法眼蔵』の『現成公案』の巻で次のように言われています。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
(仏道をならふ=存在の真実を究める、自己=真実の自己)
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
(前の自己=真実の自己、後の自己=見かけの自分)
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
(自己=見かけの自分、万法=すべての存在)
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
     (自己=自分、他己=他の人、他の自分)  (注釈:昇平)

「身心脱落」とは、身も心も一切の束縛から解き放たれた状態になることです。「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」とは、個としての自分と個としての他というものが消えてなくなって、すべて、宇宙全体が不可分一体であることを体感することです。


最後に一言。この世界は見かけ上のバラバラの個という視点から見ると、本当に苦しいこともありますが、不可分一体の“いのち“という存在の真実の視点から見ると、そのままで「すべてよし」の世界なのです。それを簡単に体感できる川の瞑想は最高だと思います。

(おわり)





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