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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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われわれはどこからきたのか

われわれはどこからきたのか

フランスのポスト印象派の画家ゴーギャンがタヒチで描いた一枚の絵のタイトルはつぎのようになっています。

「われわれはどこからきたのか? われわれはなにものか? われわれはどこにいくのか?」

もし、興味があればネットで検索すればこの絵を見ることができるでしょう。ざっと全体を眺めた後、右側から左側へとゆっくりみていくと、この絵のタイトルが何を意味しているのかを絵の奥に見ることができるかもしれません。

それはそれとして、あなたは「われわれはどこからきたのか? われわれはなにものか? われわれはどこにいくのか?」と問いかけられたときどのように答えますか?

実は、存在の真実を言葉で表すことは不可能です。というのは、私たちの二元相対的にしか思考できないアタマとそれに基づく言葉では一元絶対の存在の真実を見抜くことも、それを的確に表現することもできないからです。

二元相対的な思考というのは物事を分けて比較したり区別したりする思考方法のことで、仏教ではそれを「分別」と言います。ところが、存在の真実は無分別、つまり、分別がないのです。というか、分別を含みながらそれを超越しているのです。ですから、例えば、大・小、長・短、一つ・二つ・多、ここ・あそこ、こっち・あっち、自・他、生・死、有・無、部分・全体、過去・現在・未来、さらには、境目や個体などという観念によってバラバラに分れたものもないのです。

僕は存在の真実をとりあえず「不可分一体のひとつの“いのち“」と呼んでいますが、この「ひとつ」は「一つ」という意味を含みながらも、一つ・二つなどの数を超えているという意味です。

「いまここ」というのは、現在とこの場所しかないのではなく、過去も未来も、そして、あらゆる場所が現在とこの場所に存在しているという意味です。

存在の真実はアタマの分別を超えているので、それで昔から禅の世界では覚者が存在の真実を何とか言葉で伝えようとして苦心されています。そして、結局は言葉では表現できないので、親切なあまりに、指を1本立ててみたり、相手をぶん殴ったり、「喝!」とどなったりして、そのものを直に示して分からせようとしたのです。

趙州禅師は「存在の真実は何か?」と訊かれて「庭の柏の木」と答えています。僕だったら、問いかけたその人自身を指差すかもしれません。時には“いのち“と答えるかもしれません。

でも、これらの言葉や仕草に意味があるのではありません。それに引っ掛かるのではなく、結局は、答える人が本当に存在の真実を体得しているかどうかを心の眼で見抜けるかどうかということなのです。

ですから、たとえ問いかけている本人の機が熟していたとしても、答える方がアタマだけの理解で指を立ててみたり、「庭の柏の木」とか「“いのち“」などと言っても何も伝わりません。アタマを超えた存在の真実は阿吽(あうん)の呼吸の以心伝心によってのみ伝わるのです。

和田重正先生は「結局、何にも心配することはないんだよ」と言われました。

また、ある禅師は「すべてよし」と言われました。この“よし”は絶対の“よし”であり、存在の真実はこの言葉に尽きています。







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