プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

意識点から自覚点へ

意識点から自覚点へ

私たちは生後成長する過程でいつのころからか、自分というものを意識するようになります。それは、この世界における自分というものの意識点となったということです。

植物も人間以外の動物も自分というものを意識しません。人間は進化の過程でアタマが非常に発達しました。そのおかげで? 五感とアタマを通して他と切り離された自分がここにいると意識するようになったのです。そして、ほとんどの人は死ぬまでそのように意識しながら生きていきます。

このように、多くの人は 「“自分”というものは他と切り離された個としての存在」であると意識してそれを疑おうともしません。それは、前に述べたように、五感と通して捉えたものを相対二元的にしか思考できないアタマで認識するからです。でも、そのおかげで、人間は生物の進化の過程ではじめて”自分“という意識を持つ最初の生物となったのです。
そういう意味で、人間は生物進化の頂点に立つ存在だと言えるでしょう。

ところが、奇妙なことに、進化の頂点に立っているはずの人間が「自分というものは他と切り離された存在である」という認識するゆえに、他と争ったり、孤独や不安に陥ったりするようになり、そのために悩んだり苦しんだりするようになったのです。

そして、その中には悩みや苦しみを乗り越えようとして、「本当の自分とは何だろう?」と疑問を抱き、真剣に本当の自分を探求し始める人も出てきました。そして、真実に気がつく人が出てきたのです。

たしかに、自分というものを他と切り離された存在であると意識しているからといって、本当にそれが真実だと言えるでしょうか? つまり、「AがBである」と意識すれば(思えば)、「真実は、AはBである」と言えるでしょうか?

探究の結果、ついに本当の自分というものに気がつくということは、存在の真実を悟るということですが、別の言葉で言えば、存在の真実、あるいは、真実の自己を自覚するということです。

それは、具体的には、自己とは「他、あるいは、他人と切り離されたこの人間」ではなく、この世界の万物がことごとくそうであるように、自己もまた大宇宙、大自然の理法、すなわち、大いなる自己である“いのち“によってこの自己があり得ているという自覚です。

したがって、もはやこの自分はバラバラな存在のなかの一つの個としての存在の意識点(自分)ではなく、大いなる自己である“いのち“が顕現した大宇宙、大自然とぶっ続きの存在であるという個としての自覚点(自己)となるのです。それこそが真実の自己を自覚した新しい人類、ネオ・ホモ・サピエンス(ネホサ)への進化です。


道元の『正法眼蔵有時の巻』における「われを排列してわれこれをみるなり」という言葉は、この存在の真実を明快に言い切ったものです。

初めの「われ」は大いなる自己、つぎの「われ」は個としての自己です。両方とも同じ「われ」を使っているのは、ともに「自己」であるからです。

文章の意味は次のとおりです。

「大いなる自己である“いのち“が顕現した大宇宙、大自然における万物の整然とした有様を、それらとぶっ続きのこの自己が見て(自覚して)いるのだ」





<< 自分ってなんだろう | ホーム | 自分は死なない >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 ホーム