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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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山は山 水は水

山は山 水は水

昔の中国の禅師、青原惟信(せいげんいしん)は次のような言葉を残しています。

「わしが30年前にまだ参禅しなかったときに、山を見たら山は山であり、水を見ると水は水であった。
  その後参禅し親しく禅の師匠に相見(しょうけん)して一つの見性体験があった。そのとき山を見ると山は山でなく、水を見れば水は水ではなかった。
 そして、今日一切解決の無事の境地を得てみると、依然として山はただ山であり、水はただ水であった。」

未だ参禅しないときには、AはAであり、BはBであったということは、すべての存在がバラバラの個として見えていたということです。だから、もちろん、AはBではないと見えたのです。

一つの見性体験があった時に、AはAではなかった、BはBではなかったというのは、AはAという個、BはBという個ではなかったということです。つまり、AもBも個を超えた“いのち“だったということです。AはBでありすべてだったとも言えるでしょう。

そして、一切解決の無事の境地を得てみると、やはりAはただAであり、BはただBであったというのです。でも、それは、もちろん、AもBもそれぞれバラバラな個ということではありません。AもBも“いのち“の顕れ、ハタラキであるという存在の真実を悟ったという意識さえも潜在意識のレベルに沈み込んで、AがA、BがBであることがそのまま“いのち“の顕れなのです。それが真のAであり、真のBということです。

真のAについて簡単に言えば、
AがAであるのは Aが “いのち“ だからである
Aは“いのち“であり、“いのち“がAとして顕れ、はたらいている
もはやAあるにあらず。“いのち“Aの内にてはたらくなり。(昇平語録より)

自分について言えば、本来の自己、真の自己とは個としての実体ではありません。“いのち“の顕れ、ハタラキとしての自己があるだけです。

また、すべての存在について言えば、真実は、すべての存在は個としての実体ではなく、 “いのち“の顕れ、ハタラキとして存在しているのです。

さらに、自分について言えば、“自分“というものの殻、いわゆる、自我の殻がはずれると、そこに塵(ちり)や埃(ほこり)さえも含めてこの世界のすべての存在と素通しの自己を見出すことができます。

アタマですべての存在をバラバラな個として捉えたときには、そこには生滅があります。けれども、すべての存在をひとつの“いのち“が顕れ、はたらいている姿と見るときには、そこには生滅を”超えた”不生不滅の世界がただ展開しているだけです。

それは自分についても同じです。真実は不可分一体のひとつの世界しかありません。けれども、アタマで相対的に表現すれば、私たちは不可分一体の中の個的存在という二重性を生きているのです。

和田重正先生は「わたしたちは死んだらどこに行くのでしょうか?」という問いに「死んでもどこにも行きませんよ」と笑顔で楽しそうに答えられました。

道元禅師は、「全宇宙はそのままで仏のあらわれである」という意味のことを言いながら、「しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」と言われています。





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