プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

僕の死生観

僕の死生観

普通の人は大体次のような死生観を持っているようです。

大昔からずっと世界という舞台があり、人は一人ひとり、たとえば、舞台の左側の袖から舞台に登場し、しばらく「人生」というテーマで演技をしながら舞台の右側の方へ移動していく。そのスピードは人によって早い遅いがある。体はだんだん思うように動かなくなりやがて舞台の右端で完全に動かなくなってしまう。心については、心も働かなくなってしまうと考える人もいれば、魂となって舞台の袖より退場し、次の舞台まで別の場所に待機しているなどと考える人もいる。(この例の場合、舞台は自分にとっては他のものであり、舞台上では自分だけでなく他のいろいろな存在が演技している。)

このような一般的な死生観に対して、僕は次のような死生観を持っています。

まず、太古のむかしより不生不滅のこの世界がある。この世界が真実の自己である。一つの大いなる生命体であるこの世界は一つの人体のそれぞれの細胞や組織や器官のように、たえず古くなったものは新しいものに変わり新陳代謝をしている。

この大いなる自己であるこの世界自身の新陳代謝により無数の自己という自覚点がそれぞれのタイミングで生まれては消える。それは、たとえば、一つの人体のように、一つ一つの細胞や組織や器官が人体を構成し、そのどの一つも人体と別物ではないのと同じように、大いなる自己であるこの世界とそこに生じたそれぞれの自己は同通している。

この自己を生み出したこの世界こそが自分の根源、すなわち、真実の自己なのである。だから、自覚点としての個としての自分はいずれ新陳代謝の結果消えてしまうとしても、その根源である真実の自己は絶対に消えてしまうわけではない。


けれども、アタマのバラバラ観で自覚点としての個としての“自分”を単なるバラバラな個としての自分と考えてしまえば、誤解と錯覚に陥ってしまうでしょう。

ですから、自覚点としての個としての自分は新陳代謝の結果消えてしまうとしても、その根源である真実の自己は絶対に消えてしまうわけではないということがはっきりすれば、自覚点としての個としての自分が消えようがどうしようが、それこそ、どうでもよいのです。

和田重正先生は「死んだらどこに行くんでしょうか?」と問われた時に、ニコニコしながら「死んでもどこにもいきませんよ」と答えられました。

この「ニコニコしながら答えられた」ということ自体が先生の存在の真実についての理屈抜きの透脱した悟りを表しています。

また、「死んだ後も”自分“という意識はあるのでしょうか?」という意味の問いに対しては、「死んだあとは”自分“という意識はないと答えておいて、実際に死んだ後に、”自分“という意識があった時には困るから、”ある“ということにしておきましょう」とユーモラスかつ微妙な答えをされています。

(和田先生も超かっこいいですね!)

僕自身は、死んだ後も”自分“という意識(”魂“)は残ると考えたほうがいろいろなことが辻褄があうように思っています。でも、そんなことはどちらでもよいのです。不生不滅の大いなる自己、それが真実の自己なのですから・・・。





<< 佛様になる | ホーム | 健康の自然法 >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 ホーム