具島先生の奥様
これから書こうとしていることは僕の少年時代から青年時代にかけての実にささやかな思い出です。最近、あらためて思い出してみて、僕の人生にとっては実に大きなものであったことに思い至り、ここに書いてみようと思ったしだいです。
僕の家族は戦後熊本の田舎から福岡市の野間というところに引っ越してきました。商売の才などまったくない両親は月刊や週刊の雑誌だけを販売したり配達する小さな本屋を細々と営みながら子供たちを懸命に育ててくれていました。
僕は熊本の田舎とはまったく環境も言葉も異なる町に引っ越してきてなかなか学校生活にもなじめず、成績も落ちこぼれで、今思い出しても、とても内気な少年でした。
小学校3年生ごろからは毎月月刊雑誌を定期購読してくださるお客さんの家を回って配達するのを手伝わされました。何冊もの雑誌を風呂敷に包み、それを自転車の後ろの荷台に積んで1軒1軒配達に回るのです。
その配達先の一つが具島先生のお宅でした。僕は当時は子供であり、どこかの大学の先生らしいなとしか認識していませんでした。しかし、後になって、具島兼三郎先生は九州大学で国際政治学を教えていらして、ファシズムの研究や平和論などの執筆活動や平和活動において著名な教授であったこと、家庭においては、実に、優しい夫であり、父であったことを知りました。
その具島先生のお宅には毎月の中旬に『婦人の友』という雑誌を届けるのですが、玄関のブザーを押すと、とても品のよい、やさしい笑顔の奥様が玄関を開けてくださいます。僕が恥ずかしそうに、もぞもぞと挨拶をし、おずおずと雑誌を差し出すと、「ちょっと待っててね」と言われて、いったん奥に行って、雑誌の代金と何か小さな包みを持って戻っていらっしゃいます。
僕が代金を受け取ると、奥様は「これを」と言って、その包みを手渡してくださるのです。恥ずかしそうに挨拶をして外に出て、包みを開けるといつもお菓子が入っていました。それが毎月1回、とうとう本屋をやめざるをえなくなる大学3年生の時まで約10年以上続いたのです。
僕は小学校の3年生の時にあることで、「自分自身も含めて、この社会はみんな間違っている」と天地がひっくり返えったかのように強く思いました。
でも、「みんな」と言っても、それは「大多数が」という意味であり、「そうでない方も」数は少なくとも、たしかにこの社会にいらっしゃるのです。
僕は、幸いにも、何かに導かれるように、そのような方々の数人に出会い、まさに救われました。その方々のおかげで、偉そうなことは言えませんが、今日多少でも人様のお役に立てるようにもなりました。
そのような方々との最初の出会いが具島先生の奥様との出会いです。人生を思い返してみて、もし、奥様に出会わなかったら、まったく違う人生になっていたような気がします。
最近、偶然にご主人の具島兼三郎先生の追悼集を見つけました。その中に家族写真があり、数十年ぶりに奥様の優しいお姿を見出し、思わず涙がにじみ出ました。
あらためて思うのは、真心を込めてやることは何一つ無駄なことはないということです。
この気持ちが僕を支えています。
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