プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

不可分一体のいのちの世界とは 

不可分一体のいのちの世界とは 特別編

ほとんどの人は存在ということについて、大雑把な説明ですが、次のように考えているようです。

「この世界、あるいは、この宇宙の中にいろいろな物質や生物が存在している。その中には、例えば、家族のように、あるいは、太陽のような恒星の周りの惑星達のように、互いに何らかの繋がりや関連性があるものもある。しかし、そうであっても、存在としてはみんなバラバラである。そして、ここに自分がいて、その周りに自分でないものや人、つまり、“他”が存在している。」(これを一応“バラバラ観”と呼ぶことにします。)

ところで、以前僕のセミナーを受講したNさんが、つい先日、次のような話をしてくれたのです。
「私はセミナーを受ける前まではヘビの写真を見るのさえ怖くなるほどヘビが怖くて怖くて仕方がありませんでした。でも、つい最近、家の廊下に赤マムシがいるのを見つけてびっくりはしたのですが、この赤マムシも自分も繋がっているのだと思ったら、そのヘビが愛(いと)おしくなったのです」と。

誤解がないように先に言っておきます。僕は「僕のセミナーはスゴイでしょう!」と自慢したいわけではありません。それどころか、僕はこの話を聞いて自分の力量不足を痛感したのです。

どういうことかと言えば、Nさんの言葉から僕が理解したことは「Nさんはまだバラバラ観で世界を見ているな」ということであり、また、「でも、Nさんはセミナーに参加して、バラバラ観ではなく、不可分一体の存在の真実が分かった、と思っていたのかもしれないな」とも思いました。

同時に思ったことは、「セミナーの受講者のうちのかなりの方々がNさんと同じような観方から抜け出ていないのではないか?」ということです。

どういうことか説明しましょう。おそらくNさんはその事例の中で次のように思ったのではないかと思うのです。
「ここに自分がいる。そして、あそこにヘビがいる。でも、この自分とあのヘビは繋がっている。」

僕に言わせれば、これはまだバラバラ観から抜け出ていないのです。なぜなら、たぶん、Nさんのアタマの中には、まだ自分とヘビとが別々の存在だという観念が残っており、「それぞれ別々の存在だけれども何らかの繋がりはあるのだ、だから、互いにバラバラではない」というように理解しているのではないかと思うのです。でも、それではまだ存在の真実をわかったとは言えません。

アタマは何事も分けて認識したり、思考することしかできません。ここでは、それを二元相対的思考、あるいは、分別(ぶんべつ・ふんべつ)と呼びましょう。

ですから、目で見たものをアタマを通して認識すると、人体で言えば、たとえば、「小指は手の一部であり、手は体の一部である」というように“全体と部分”というような見方が生まれます。

あるいは、今この部屋の中には、例えば、ストーブと机が見えますが、アタマは当然のように「ストーブと机は別々のもの」と認識します。

あるいは、アタマは「自分は人類の一人である、つまり、人類という全体に対して、自分は一人の個である」というように“全体と個”という観念を生じます。

あるいは、「自分は人類の一人としての個である。彼も彼女も人類の一人として個である」というように”個と個“という観念を生じます。

このように、真っ白な紙でも色眼鏡を懸けて見ると色がついているように見えるのと同じように、本来一つのものであっても、すべてを分別するアタマを通すと、別々のものがバラバラにあるように思えたり、全体と部分、全体と個、個と個などの違いがあるように思えるのです。

では、不可分一体の存在の真実とは、分かりやすく言うと、どういうことなのでしょうか?
それは、この世界(宇宙)はひとつの“いのち“が存在や現象として顕現したものであり、この世界(宇宙)がそっくり丸ごと一つの生命体である、ということです。

現代の科学によると、この宇宙(世界)はすべて何もないところからビッグバンによって始まり、分化、複合、発展、成長し続けているのだそうです。だとすれば、この宇宙(世界)が一つの活動体であることは科学的な常識だと言えるでしょう。

僕は、いわゆる、生物学による”生物“あるいは”生命“の定義ではなく、活動体としてのこの宇宙(世界)を一つの“生命体”と呼んでいるのです。その一つの生命体こそ本当の自分(真の自己)なのです。なぜなら、真実は、この世界自体が一つの生命体であり、その他には生命体は存在しないからです。

要するに、“自分”というコロッとした塊があるのではなく、これまで“自分”と思っていた“もの“は、単に、この一つの生命体自身を自ら認識する「自覚点」の一つにすぎません。

それは、たとえば、一つの人体を構成する細胞の一つ一つは独立した生命体とは言えないのと同じようなものです。たとえ、その細胞に超ミクロのコンピューターが付いていて、内蔵するプログラムによって、コンピューターが「この人体にはたくさん生命体があり、自分もその一つである」と意識したとしても、真実は、人体という一つの生命体しかないありません。これはその細胞のコンピューターのプログラム自体が狂っているのです。

この世界(宇宙)も同じです。たとえ、ある人が「この世界(宇宙)にはいろいろな物質や生命体などがある自分はその中の一つの生命体である」と思ったとしても、それはその人のコンピューター(大脳・アタマ)の分別思考しかできないプログラム自体が狂っているからそう思うのです。

ですから、日常的、あるいは、通俗的なレベルで思考する場合ではなく、「存在の真実、あるいは、真の自己は何か?」とその本質を検べる場合には、アタマで間違って認識したものを相手にしないことが肝要です。

そのうえで、もともとこの世界(宇宙)は一つの生命体であり、それ以外には生命体はないという当たり前の真実を理解し、そのひとつの生命体であるこの世界、この宇宙こそが本当の自分、真の自己であるとバンとハラに収めることがポイントです。そうすると不思議なことに、それが時の経過とともに、思い込みなどのあやふやなものではなく、確かな真実であることを体全体で実感できるようになってくるのです。

一つのものは一つのもので、もともと、どのようにも分けることはできないのです。ですから、この世界(宇宙)においては、そこに存在しているものは“ただ一つの生命体である不可分一体の世界だけであり、全体と部分、全体と個、個と個などに分かれてはいません。アタマを通して認識しようとするために、いろいろに分かれているように思ってしまうのです。

例を使って分かりやすく説明しましょう。
いまここに、一抱えほどの柔らかい粘土の塊が一つあるとしましょう。そして、その粘土を使って小さなイヌとネコとニワトリの3つ像を作ったとしましょう。そこで質問です。
そのイヌとネコとニワトリの像は別々のものでしょうか?
答えは、日常的、あるいは、通俗的に、アタマで捉えれば、見た目どおりに、一応、それぞれ別々ということになります。

では、それぞれの本質はどうでしょうか?
答えは、みんな同じ一つのもの(粘土)です。

その証拠に、3つの像を潰して最初にあった粘土に混ぜてしまえば、3つの像も像でなかったものも、もはや区別することはできません。それは、たとえ、それぞれが今現在ある形をしていても、もともと、一つの同じものだからです。

同じことがこの世界についても言えます。世界はもともと分けることができない一つの(不可分一体)の存在なのですから、たとえ、今現在、形や色や性質や機能などが異なるものがいろいろとあったとしても、それぞれの本質である“いのち“が変わったわけではありません。つまり、みんな同じ一つのものです。

例えば、胃と腸がそれぞれ「オレが」「オレが」と言い合っていたらどうでしょうか? もし、そうだったら滑稽そのものだということは誰にも分かるのではないでしょうか。事実、胃も腸も何も言わずにそれぞれの仕事をただやっているだけです。私たちはいのちの顕れである大自然、そして小自然と言われる人体にもっともっと学ばなければならないのです。

さらに、「全体」と「個(部分)」という言葉を使ってこの“いのち“の世界を表現するとすれば、「個(部分)の中に全体がそっくり含まれている。一つの個(部分)を全体が支え成り立たせている。また、一つの個(部分)が全体を支え成り立たせている。そして、一つの個(部分)が他の個(部分)を支え成り立たせている」とも言えるでしょう。

では、前述のNさんと同じ場面で、不可分一体の存在の真実がはっきり分かっている方だったらどの認識するのでしょうか?
それは、強いて言えば、「あそこに赤マムシの姿をした自分がいる」という感じでしょうか。もちろん、絶対に素手で触ったりはしないでしょう。さっさと逃げるか、咬まれないように注意しながら追い出すでしょう。

でも、本当に体得していれば、「あそこに赤マムシがいる」と、アタマの人と同じ表現をするでしょう。でも、その中身は、一方は一元絶対の世界をそのままに生き、他方は二元相対的思考に捉われて生きているというように雲泥の差があるはずです。

アタマは分別が仕事です。何でも見たものを二元相対的に分けて認識することしかできません。それは表面的には便利で能率的なところがあります。でも、それではこの世界の存在の真実を見抜くことはできないのです。

ですから、僕のセミナーでは、最初はアタマを活用して「本当はどうか?」と一つ一つ検べて行くのですが、あるところ以上で、アタマを超えて、「もともと一つのものしかないのだ。分けることはできないのだ」と直感するしかないのです。

けれども、いつまでも、アタマのレベルに留まっている方は、結局、「バラバラなものの間に繋がりがある」としか理解できずに、それが僕の言っている「不可分一体の存在の真実」だと勘違いしてしまうのでしょう。

僕は毎回セミナー参加者全員にいろいろなテーマについて検べて行くときに、テーマごとにどこかの時点で自然にポンと飛躍が起きることを期待しながら進めています。けれども、全員に期待通りの結果が出ているとは言えません。でも、「現代人はアタマで考えることを真実そのものであると思い込む傾向が非常に強いので困る」などと言うつもりはまったくありません。なぜなら、それを言っちゃあ、お終いだからです。

なぜなら、セミナーの中で全員が自らの思い込みに自ら気づいて、その思い込みが自然に脱落することこそがセミナーの目的なのですから、全員がそのような結果に達しないのはひとえにファシリテイターである僕の力量不足だと言わざるをえません。とにかく目標に向かって工夫し続けるしかないと思っています。今回のブログは取りあえずの埋め合わせのようなものです。

さて、最後に、このテーマの結論です。

この世界を五感とアタマを通して認識すると、確かにみんなバラバラのように見えますが、それは一元絶対の世界が、一見、二元相対の世界として見えているだけです。

この世界はひとつの“いのち“の花園です。ひとつの“いのち“がスミレやバラなどなど、として咲いているのです。

他に対する自分という個はありません。
自分とは、 “いのち“、この世界、この宇宙そのものです。
“いのち“、この世界、この宇宙こそが自分です。

我を排列して尽界(全世界)とし、我これを見るなり。(道元)
(前の我=真の自己=“いのち“ 後の我=自覚点としての自己)

全世界が私の全身である。 (長沙大師)
出会うところすべて我が生命 (内山興正老師)


その存在の真実の中に、なぜか「この個体が自分だ」という意識がある。
それは錯覚にすぎない。

けれども、その錯覚にこそこの世界の妙味があるのです。
いくら“いのち“の顕れと言っても、それが均一のノッペリとした糊のようなものばかりだったらツマラナイでしょう!




<< 不可分一体のいのちの世界とは 付録編 | ホーム | いのちのつぶやき >>


コメント

そこから出発

自覚のセミナーや先生方のお話や実習、お産から不可分一体の世界に気がつきました。ですがそれは時に実感し、時に頭でとらえていたという事にもせみやブログから気がつきました。不可分一体を生きざまにして体現出来ていなければ結局はその世界を解っていないのでは?などとと思ったりなど。
今は、不可分一体という事実は変えようがない真実。頭の世界でどうこう出来るものではないことがはっきりしてきました。
「そこから出発」です。
*和田先生の日めくりカレンダー、今日のページをめくったら、まさにこの言葉でした。

事実を知れば

ねんどの話わかり安かったです。事実は一つなのに何で人間は争ったり自分を責めたりするんだろう。もったいない。

なるほど!なんて明快なのだと思いました。赤マムシのことを仰ったNさんのお話、あぁー自分も似たようなことを思っていたと思いました。不可分一体の世界とは、本当に紛れもない真実そのものだと、はっきりわかりました。

「その錯覚にこそこの世界の妙味があるのです」というオチ(?)を読んで、何と言っていいのかわからないのですが、そうだなと笑みがこぼれました。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

先日のセミナーから、そして、このブログを見て、私には二つのチャンネルができました。

アタマを通しての世界と通さない世界。

見えている世界は同じなのに、同じじゃない。

静かであったかくて、当たり前でほっとするチャンネル、これが真実なんだな。

ここにあったのか、こんなところに。改めて、自分を抱きしめました。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 ホーム