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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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不可分一体のいのちの世界とは 付録編

不可分一体のいのちの世界とは 付録編

以下は、かなり以前に『ある目覚めの体験』として『いのちの塾』に掲載したものですが、今回の特別編『不可分一体のいのちの世界とは』の締めくくりとして最適だと判断し再掲載する次第です。繰り返し読んでいただければ誠に幸いです。


これは僕の恩師和田重正先生が10代のある日突然、「自分とは何か」「自分はどう生きるべきか」という人生の一大命題に直面し、10年間その答えを求めて日々苦悶格闘した結果、ついにその答えを見つけることは不可能だと見極め、絶望のあまり、劇薬を飲んで自殺しようとしたまさにその瞬間に、存在の真実に目覚めた体験を記した貴重な記録です。

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四月二日正午のことです。将に服もうとするとき、日頃口をきいたこともない女中が廊下伝いに急ぎ足で私の部屋にやってきて、障子を細く開けて言いました。

「ごらんなさいませ。もうこんなに咲き始めました」

その張りのある明るい声に誘われて、私は何気なく振り向きました。女中の差し出して示す桃の小枝にはポッとまさに開こうとする桃色の蕾がついています。

それを見たときの私の驚きようは、ただ目を見張るばかりでした。そして心中にはこんな叫びが渦巻いて起りました――、「みんな間違いだ。今まで見たり考えたりしたことは悉く夢だったのだ。コレが本当なのだ。真実なのはコレなのだ」

この驚きや叫びと同時に明るい世界に生まれ出たような気がしました。予期しない、あまりに急激な世界の変貌のために、暫しは呆然としましたが、「まてまて、これも瞬間の夢ではないか」と思いましたので、驚いてなおそこに立ちつくしている女中を去らせ、独り正坐して静かに瞑目しました。

――生け垣の外を子どもが歌って通ります。庭の植込みで小鳥が啼いています。時々、遠くを走る省線電車の音が伝わってきます。五秒ぐらいだったか、それとも二、三十分も経ったかわかりません。「よし!」という気がするので、それでも恐る恐る目を開けてみました。後戻りしていません。急に腹の底から大きな笑いが押し上げて来ましたが、辛うじて爆発を抑えました。

久しぶりに障子をあけて庭を眺めました。桜も松も生きています。門の外へも出て見ました。森も小川も雲も大地も、春の麗かな光の中にいのちのよろこびに燃え上がっています。

このとき、私は生まれてはじめて天に向って合掌しました。思慮も分別もなしにただ合掌したのでした。

実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あの世界はバラバラのものの寄り集まりの世界だった。この世界は一の世界である。あの世界の質は極度に粗い。この世界は精妙微妙を極めている。この世界の景色はあの世界の言葉では言い表わすことができない。

これが実物ならばあれは影絵にすぎない。要するにこの世界は光と、もえるいのちの活々とした行き詰りのない世界でありました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。

光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て「愛されている」と思いました。そして更に、この世界の実質が「愛」というものであろうと思いました。

愛の世界においては、自分の小さな力によるもがきやはからいには拘りなく、すべての事物がありのままに、しかし必然性をもって存在し展開しているのだと知りました。
(以下省略)


昇平のコメント
「実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あの世界はバラバラのものの寄り集まりの世界だった。この世界は一の世界である。」

この世界は無生物でできた舞台にバラバラなものが寄り集まって、はかないいのちを生きる世界ではありません。この世界自体が一大生命体、すなわち、すべて一つの永遠に生きている世界なのです。

「光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て『愛されている』と思いました。そして更に、この世界の実質が『愛』というものであろうと思いました。」

この世界の本質は「愛」です。“いのち“は”愛“なのです。不可分一体の“いのち“の世界は不可分一体の”愛”の世界です。

「これが実物ならばあれは影絵にすぎない。要するにこの世界は光と、もえるいのちの活々とした行き詰りのない世界でありました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。」

それまでアタマで思っていた世界は無機質の死んだ世界だったのです。ところが、アタマを通さずに桃の花をそのまま見た時に、この世界の正体を見たのです。

この世界は、まさに、光と、もえるいのちの生き生きとした、どこまでも行き詰まりのない愛の世界です。





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コメント

行き詰まった和田重正先生が、桃の花を見て、五感でなくいのちとしていのちの姿を体験的に捉えているようすがありありと目に浮かんできます。
まさに、セミナーで話された不思議なガラス板の右側の意味の世界からみえた世界だと思います。
このブログを読み、かつて昇平先生がブログの中で、存在の真実の自覚(悟り)を得るためには3つの道があると書かれていることを思い出しました。

「第一の道は、理屈でなく、存在の真実を体験的に把握すること、その代表が禅である。その他、禅の修行をしなくても、何かにとことん行き詰まった人が偶然、存在の真実を体験することがある。」
「第二の道は、この宇宙の生成発展、大自然の仕組み、生物の進化、人類の進化、人間が身に付けている観念を徹底的に検べることによって、不可分一体の存在の真実を知的に深く理解すること」。
「第三の道は、日々不可分一体の裡に沿って実践生活を送るということ」
というものでした。(この3つの道のブログ内容は、もっと深いものです)
このブログを読んだ時、「第一の道は今の自分には無理としても、第2と第3の道は自分でもできるのでは」と感動したことが思い出されてきました。

改めて、この3つの道について、今の自分はどうなのかを顧みてみました。
第一の道は、川の瞑想により頭を相手にせず、無(いのち)の世界を体現しようとしているも、いまだ、ほんの入り口にいるようです。
第二、第三の道もまだ道半ばで、さらに深めていきたいと思っています。
ただ、これまで、右の世界、左の世界、たばこの禁煙、人類の進化など数えきれない実例を挙げられ、また、頭で理解しようとすると誰もが理解に苦しむ、分別と無分別の世界の存在を明らかに示していただくなど、知的に理解できるように導いていただき、はっきりと不可分一体の「いのち」の存在を理解することはできました。

世界の一人ひとりが、みんな幸せになること。世界の一人ひとりは、一つのいのちの現われであり、自分だから。

このことを、第三の道の中で活かしていくことが、これからの進む道だとしっかり腹に収めていきます。

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