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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自覚のセミナー感想文 AAAさん

 自覚のセミナー感想文 AAAさん

自覚のセミナーに参加させていただきありがとうございました。

腐っている自分から、ネズミ取りに囚われている自分から、素直になれない自分から、中途半端な自分から、脱却しなきゃと参加させてもらいました。

自覚のセミナーを終えてなんでこんなことができないのか! 申し訳ないという気持ちでいっぱいです。

でも、世界は、変わっていける。

真の幸福を実現するため自覚のセミナーをより多くの人に受けてもらわなければならないと感じました。

この一歩が、平和な世界に繋がっていくんだという思いです。

ずっと自分が嫌いで出来ない自分と思い込んでいました。

何をするのか、なにができるのか、やっていかないとダメなのです。





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自覚のセミナーの感想文について

自覚のセミナーの感想文について

次回から順次11月に開いた自覚のセミナーの感想文を掲載します。

なお、名前はすべて匿名にしてあります。

また、セミナーの具体的なテーマ について具体的な感想を記述した箇所があれば、今後自覚のセミナーに参加する可能性がある方々に先入観を与えないように、削除または意味を損なわない範囲で書き換えてあることをご了解ください。




不生

不生

盤珪禅師は「親が産み付けたのは不生の仏心ひとつである。仏心は不生にして麗明なものである。だから、不生の仏心で一切の事が整うのである。一切の迷いは身のひいきから生じる。迷わないのが悟りである。だから、常に不生の仏心ひとつでいなさい」と説いています。

盤珪禅師の言う「不生」とはどういう意味か、僕は本人ではないので、これと断定はできないのですが、以下、僕なりに推測したものです。

「不生」と言うと、まず、「不生不滅」という言葉が思い浮かびます。盤珪禅師は「不生」、つまり、「生まれないもの」は滅することはないのだから、わざわざ、「不滅」と付け加える必要はないと言っています。

ということは、「不生」とは「不生不滅」を略して言っているのだということになりますが、僕にはそれだけが盤珪禅師が使った「不生」の意味ではないように思えるのです。

盤珪禅師は「この世界は不生が顕現したものである。つまり、この世界の本質は不生である。すなわち、この世界は現象界(生まれたもの)である。それに対して、この世界の本質は不生(生まれないもの)である」と言っているのでしょう。

さらに、付け加えれば、「この世界(現象界)においては、一見、それぞれのものが生滅(生まれたり滅したり)しているように見えます。それに対して、この世界の本質は不生不滅である」ということなのでしょう。

ただ、「不生不滅」と言うと、生滅する世界が顕現した後で、生滅を否定しているような感覚として捉えられかねないので、「この世界が顕現する“以前”の何もないもの」という意味をはっきり伝えるために「不生不滅」ではなく、あえて、「不生」という端的な言葉を使ったのだと僕には思われます。

盤珪禅師の言うように、存在の真実を本当に悟りもしないで、“不生不滅”という言葉だけを覚えて、分かった風に「不生不滅、不生不滅」と言ったり、理解されることを避けたかったということも確かにあるのでしょう。

この現象界においてはすべての存在は私たちの五感と大脳(アタマ)を通して認識すると、一見、すべてのものがバラバラに存在し、生滅しているように見えます。しかしながら、この世界の本質は不生であり、その働きによってこの世界が存在しているのです。つまり、この世界はバラバラなものが寄り集まってできたのではなく、不生不滅の不可分一体の世界なのです。

ですから、この不可分一体の世界は、人間のアタマの錯覚や妄想で作りだしたものを除いて、麗明な不生のハタラキによってすべてが互いに調和して自ずから整っているといます。

「不生の仏心」についてもまったく同じです。私たちひとり一人の本質は不生の仏心だけなのです。体、知識や知恵、マイナス感情などその他のものはすべて後天的に身に付けたものでしかありません。ですから、不生の仏心で自分も、周りも、一切のことが自ずと整うようになっているのです。

本当の自分はこの世界を在らしめている不生ですから、何が起こっても決して変わることはありません。だから、何も心配することはないのです。





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整心

整心

整心(せいしん)とは僕が作った造語です。その意味は「本来の心(真心)ですべては整う」ということです。

ところで、仏教でいう「悟り」ということの意味は、手元の広辞苑によると、「心の迷いを去って真理を体得する。煩悩(ぼんのう)を脱して涅槃(ねはん)を得ること」となっています。ちなみに、「涅槃」とは「煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地」となっています。

「本来の心(真心)ですべては整う」という意味は、「悟り」という言葉を使って言い換えれば、「私たちはみんなすでに“悟っている”」ということです。

「えっ!?」と思われたかもしれませんが、決して、詭弁やこじつけで言っているのではありません。僕は本気で「私たちはみんなすでに“悟っている”」と言っているのです。その真意を分かりやすく説明しましょう。

37億年前にこの地球に最初の生物が誕生して以来、私たちの先祖は数多くの想像を絶する困難と危機を乗り越えながら、天文学的な回数“いのち”を世代から次の世代へと1回も途切れることなく繋いで進化を重ね今日の私たちに至っています。

ということは、この進化の頂点にいる私たちひとり一人の人間はどんな困難や危機をも乗り越えることのできる最強の能力をすでに備えているということです。

たとえば、人間の体にはもともとそれ自身健康を保ち、自らを整える強力なハタラキ・自然治癒力が備わっています。現代では私たちの自然治癒力を過小評価する風潮が非常に強くなっていますが、37億年もの間、薬や何か外部の手助けに頼ることもなく、幾多の困難を乗り越えながら、たえず進化を繰り返した私たちの体はそんなヤワであるはずがありません。

その真実を豊富な実践をもって証明し説かれたのが野口整体の創始者である野口晴哉先生です。野口先生は「整体」ということを説かれました。整体とは「体は自ら整うようにできている」。すなわち、私たちの体にはもともと自らを整え健康に生きる充分な能力がすでに備わっている」ということです。ですから、私たちはそのハタラキに全部任せさえすれば、楽に健康に生きていくことができるのです。

体と同じように、”いのち”が顕現した一元絶対、不可分一体の世界においては、”いのち”である私たちの本来の心(真心)に全部任せれば自ずから自分も整い、周りも含めて、一切のことが整ってうまく行くようになっているのです。

ここで、「では、どうしたら真心で生きていけるのか?」と思う人もいるかもしれませんね。

それは、実に簡単です。もともと真心しかないのですから、「真心しかないのだ」だと決定(けつじょう)して、真心でいればよいだけです。

怒り、恐れ、嘆き、落ち込み感、優越感・劣等感、好き嫌い、対立観、所有観、ケチな根性・身びいきなど、二元相対的にしか思考できないアタマで後天的に身に付けてきたバラバラ観が出てきても相手にしないのです。

「そう言われても。それが難しいのだ」というような人は自観法をマメに実修することです。そうすれば、そのうちに、いつでも真心でいることができるようになります。




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けつじょうと真の自由

けつじょうと真の自由

前に『決定』というタイトルのブログに書きましたように、「決定(けってい)する」というのは広辞苑によれば「はっきり決めること」となっています。つまり、「“自分が“はっきり決める」ということです。

けれども、盤珪禅師が「親の産み付けたものは不生の仏心一つである」と“決定(けつじょう)して”と言われた“けつじょうして”ということの正確な意味は、“自分が”そのように決めて、というよりも、それ以前に「真実はもともとそのようになっている」ということであり、その真実を見定めて、心がそのようにはっきり決まり定まること」という意味なのです。

和田重正先生は禁煙しようとして、いろいろな方法でことごとく失敗したあげく、「タバコをやめるには方法はない。方法を以てしてはタバコはやめられない。タバコをやめるにはただやめればよいのだ」という真実に天啓のようにはっきりと気づき、そして、気がついたときには、タバコをきっぱりと苦もなくやめていたのです。

ここで、またもやタバコを例に説明しますが、スモーカーが健康その他の理由でタバコをやめようとする場合には、ほとんどの場合に、吸いたい気持ちを精神力でガマンして抑えつける“ガマンの禁煙”をしようと“自分が“決めます。でも、その結果は、それでタバコをやめられる人は非常に少ないのです。

これは、そもそも何を決めるかが見当はずれだからです。しかし、今回のブログで書きたいことは、何を決めるかということを問題にしているのではありません。

タバコをやめるためには、タバコには何のメリットもなく、デメリットばかりだというタバコの正体、真実にはっきり気づけば、その瞬間に「もはやタバコは吸いたくない!」と気持ちが転換して、「タバコは吸わない」と心が自動的に決まるのです。つまり、自分が意識的に決める、決断することではないということです。

以上のように、「決める」と「決まる」、つまり、「けってい」と「けつじょう」の違いに気がつくことはとても大事なことなのです。

人間は本来完全に自由です。その完全な自由において、不生の仏心でいることもできれば、それを修羅に変えることもできます。たしかに、どちらでも自由に選択し決めることができることは事実です

しかしながら、その選択の基準でもっとも重要となることは、真実を明らかにすることです。まず、真実を明らかにすること、タバコで言えば、タバコの真実、すなわち、正体にはっきりと気づくことができれば、私たちは、どちらを選択しようかなど考えるよりも早く、すいすいと正しい行動をとるでしょう。それが「決定(けつじょう)」ということの意味であり、真の自由ということです。


補足:今回のブログを読んで、前に書いた『決定』というブログに述べたことと「けつじょう」ということの意味が違うと思われた方がいらっしゃると思います。

けれども、どちらも同じことを述べているのですが、書いている時の視点が前回と今回では少し異なるのです。

前回はアタマ以前にすでにある真実に気づいたにもかかわらず、それを再びアタマで考えてぼかしてしまい、結局は真実に沿った生き方・行動ができなくなってしまう傾向の人がかなりいるということを考慮して書いたのです。

そういう傾向のある人は一度確認したアタマ以前の真実を自分で改めて確認して、自分の意思のレベルにおいて「はっきり決める」ことが大切です。そのことを「けつじょう」という言葉を使って言おうとしたのです。

もちろん、盤珪禅師の言われる「けつじょう」という言葉の真の意味は今回説明したとおりです。





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