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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自己の世界  その7

自己の世界  その7
(その6からのつづき)

私たちは、ふつう、すでに存在しているこの世界という広大な舞台にちっぽけな自分が一人の“個”(登場人物の一人)として生まれ(登場し)、生き(演技し)、そして、一人で死んでいく(退場する)ことを「自分の誕生、生涯、死」であり、そして、それは他の人についても同じだと思っています。

自分が生きている間(演技中)は広大な舞台の上で他の出演者たちと絡んで演技をします。自分では自分が主役のつもりなのですが、ごく身近な人を除いて、周りのほとんどの人からはその他大勢の役者の一人ぐらいにしか思われていません。

演技が終われば、自分ではまだどうしても演技を続けていたいと思いながらも、わずかに身近な人たちからだけ惜しまれつつ、でも、周りのほとんどの人からは当然のこととして、あるいは、気にもされないうちに、イヤイヤながら死んでいか(退場し)なければならないのです。

このように、常識的な死生観と自分と世界の構造では、生きている人(演技をしている出演者)はすべて同じ一つの世界(舞台)で生きて(演技して)います。

けれども、存在の真実から言えば、自分は自分の生きる世界と共に生まれ、自分は自分の生きる世界と共に生き、自分は自分の生きる世界と共に死んでいくのです。

「えっ? どゆこと?」とお思いでしょうね。

順を追って説明しましょう。

まず、簡単に言えば、すべての人はみんな本質は同じ“いのち”ですが、体験的には自分は自分であり、他の人とは何一つ貸し借りできない別々の存在なのです。

あなたのお腹が空いているのに、他の人に何か食べてもらっても、あなたのお腹が膨れるわけではありません。

今テーブルの上に1個の茶碗があるとします。その事実は誰にとっても変わらないことは、それこそ、事実です。

でも、私が見る角度と他の人が見る角度は違います。また、私の視力と他の人の視力がまったく同じということはありません。また、色彩を認識する能力も人によって微妙に違います。

ですから、一つの茶碗が事実としてそこにあり、それを見ているのには違いはないのですが、私が私の見る角度、私の視力、私の色彩認識能力、心身の状況、感性、思いなど独自の特性を持って体験するものと、他の人がその人独自の特性を持って体験するものとはナマの体験的事実としてはまったく異なるのです。

このことは、この世界のすべてについて同じです。ですから、ナマの体験としては、自分が生きている世界と他の人が生きている世界はまったく別々なのです。これは主観的とか客観的という抽象的概念や科学的事実を超えた生(ナマ)の体験的事実・真実です。

このようにして、個としての自分は生きるナマの体験として、この世界のすべてと関り、それを内容としてと生きています。そういう自分を僕は”自己”と呼んでいます。

ですから、自己は自己の生きるナマの世界と共に生まれ、自己の生きるナマの世界と共に生き、自己の生きるナマの世界と共に死んでいくのです。

すなわち、自己はそのままで刻々と変化している自己の生きるナマの世界と共に、どちらに転んでも、何があっても、過不足一切なしで完結しています。

(つづく)





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自己の世界  その6

自己の世界  その6
(その5からのつづき)

ここに粘土の塊が一つあるとします。その粘土を全部使って、イヌとネコと人の像を作ったとします。

それらのイヌとネコと人の像は異なる別々のものでしょうか?それとも、同じものでしょうか?

私たちの常識的な答えは、それぞれは現在は異なる別々のものであるが、元々は同じ一つのものだった、ということになるのでしょう。

では、それらの像をもう一度潰(つぶ)して、もとのように一つの粘土の塊にしたとします。

それらのイヌとネコと人の像は異なる別々のものでしょうか?それとも、同じものでしょうか?

やはり、私たちの常識的な答えは、それぞれはもとは異なる別々のものであったが、現在は同じ一つのものであるということになるのでしょう。

以上の答え方が実にご都合主義的でいい加減な答えであることは誰にも明らかです。

それで、真実はそれらのイヌとネコと人の像は異なる別々のもの?それとも、同じもの? 一体どっちやねん? ということになります。

本質としては、つまり、この場合は粘土という素材に関しては、それがどのような形になっても、そこから、いくつもの“個”が現れたように見えても、あくまで全部同じ一つのものです。

そう言えば、神様が一つの粘土の塊からいろんな動物や人の像を作って、それを手のひらに乗せて、息をフッと吹きかけて、生命(いのち)を与えていろいろな生物や人を創造した、というような神話がありました。
(ついでに、息(いき)という日本語は本来、い=いのち、き=気、すなわち、いのちの気という意味だそうです。)

僕には神様がいらっしゃるのかどうかは分かりませんが、この世界のすべての存在はすべて目に見えない粘土(“いのち”)という素材からできています。

だから、見かけ上はいろいろ形が違うものがいくつもあるように見えますが、(そして、そう見えることにもそれなりの意味があるのですが、)本質はどこまで行っても、全部同じ一つの粘土(“いのち”)なのです。

この粘土、すなわち、“いのち”がどういうものであるか、それは私たちの五感では捉えることはできません。また、将来どんな観測機器を開発したとしても、その正体を捉えることはできないでしょう。なぜなら、“いのち”はこの世界を生み出した力ですから、それによって生み出されたものによってそれを捉えることはできません。つまり、被創造物はその創造者を認識することはできないのです。

では、“個”というものは存在しないのか?というと、もちろん、そんなことはありません。

“いのち”という素材はまったく同じで、それぞれの存在はぶっ続きなのですが、姿形や性状や働きなどの視点から言えば、当然、すべてが同じではないのは当然の事実です。

ですから、姿形や性状や働きなどを見れば、自他があり、みんな別々の存在のように“見える”のですが、それは、あくまで、それぞれの存在の根底・土台はどこまでも同じ一つのものという絶対真実の上での自他であり、別々の存在なのです。

つまり、すべての存在は表面上は別々でありながら、その本質は不可分一体なのです。

(つづく)




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自己の世界  その5

自己の世界  その5
(その4からのつづき)

ここまでのところを整理するために、もう少し個と全体ということについて検べてみましょう。

庭にタンポポとバラの2本の花が咲いているとします。この2本の花は同じものでしょうか?

これまで述べてきたように、いずれも一つの川の流れの中の渦のようなものですから、色や形や性状が異なっていても本質は共に“いのち”であり、同じ一つのものです。何しろ、この世界のすべてのものは同じ“いのち”なのですから。

ところが、私たちのアタマは、その性能として、そのタンポポとバラの表面的な姿形や性状やハタラキや存在している場所が違えば、それぞれを別々の“個”として捉えるようになっています。

そして、タンポポとバラではなく、2本のタンポポがある場合にでも、「種類は同じではあるけれど、それぞれ別々の個だ」と捉えるようになっています。

つまり、どんなものでも2つ以上のものがあれば、それらの本質が同じものであったとしても、それぞれ別々の個として捉えるようになっています。

ということは、アタマを通して見ると、この世界のそれぞれの存在は、分数で表せば、「全宇宙一切分の一」、人に限れば、「全人類70億人分の一」ということになります。

ですから、すべては分離してバラバラであり、個体としてのこの自分以外は「同じ人間ではあるけれど、すべて他人」ということになります。

たしかに、この個体としての自分のお腹が空いている時、誰かが代わって食べてくれても、自分のお腹が膨れるわけではありません。また、自分が考えているさまざまな思いの内容は隣の人の思いの内容と部分的に一致する場合もあるかもしれませんが、根本的にはまったく別のものです。一人一人考えることも違えば、行動も別々で異なります。

そういうことから言えば、それぞれ「全人類70億人分の一人」を生きるまったく別々の人間であるということも事実なのです。
ところが、以前に『1本の花』で書いたように、それぞれの人間はただ一人の人間であるのではなく、その個体的あり方を通して天地一杯ぶっ続きのいのちを生きているのです。それを分数で表すと「一切分の一切、全人類分の全人類」ということになります。

存在の真実は「それぞれの存在が天地一杯の“いのち”を生きている」ということですが、それを言い換えると、それぞれの存在がすべての存在を自己の内容として含みながら生きているということです。

つまり、存在の真実は私たちひとり一人は本質は「一切分の一切」でありながら、表面的には「一切分の一」という(アタマで考えると)二重構造的自己を生きているということです。

私たちの手のそれぞれの指は姿形、働きの違いだけを考えると別々ということになりますが、指の根元を見ると全部繋がっています。どこにも境目がありません。それぞれの指はもともと一緒に動くことによって一つの働きをするようにできています。

このように、眼には見えなくても、この世界はみんな繋がっており境目もありません。それぞれが表面的には“個”であるように見えながら、すべてはどこまでも不可分一体の世界なのです。

(つづく)





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自己の世界  その4

自己の世界  その4
(その3からのつづき)

その3で説明しましたように、自分というのは流れている川に現れた渦のようなものであり、それはこの世のすべての人やものについても同じことです。

要するに、本質としては、自分はこの世と別のものではなく、この世のすべての人やものと同じものなのです。

この真実を、少し別の角度から説明してみましょう。

私たちはふつう、自分は自分の力で生きているように思っています。でも、本当にそうでしょうか?

そもそも、自分が生まれてきたのは自分の力ではありません。そして、心臓が動き、呼吸をしているのも、食べ物を消化し、吸収し、排せつするのも、考えるのもすべて自分自身で働かせている力ではありません。もちろん、自分に働いている力ですから、自分の力ではあるのですが、自分の思い以上のところで働いている“力“です。

また、その力は自分だけに働いているはずはありません。その力は、自分以外の人はもちろん、庭の花々や草や樹木などの植物、鳴いている小鳥やストーブの周りに寝転がっているネコたちなどの動物などに働き生かしている力と同じ力であることは明白です。

でも、その力は生物だけに働き生かしているのではありません。そもそも、その力はこの大宇宙そのものを創造し、そのすべての存在をあらしめ、空や雲、雨、山、川、海、森、平野などの大自然を創造し、そこに働きかけ、生きとし生けるものすべてを生かしている力であることには誰にも異論はないはずです。

その力を”神“、あるいは、創造者と呼んでもよいのかもしれませんが、ここでは「その力」を あえて“いのち”と呼んでおきます。

この世のすべての存在は“いのち”が現象として顕れたものです。“いのち”とその現れとしての存在は一枚の紙の裏表のようなものであり、同じものです。

ですから、「すべての人は“いのち”から生まれ、“いのち”として生き、死んで“いのち”に帰っていく」と言ってもよいでしょう。

つまり、本当の自分、すなわち、”自己”は生死を超えて不生不滅の“いのち”そのものなのです。

“いのち”は、この世において、表面的には姿形や性状やハタラキが異なったものとして現われます。けれども、本質はみんな同じ“いのち”であり、自も他もありません。

また、“いのち”という本質はアタマによる全体―部分という認識や観念を超えているので、すなわち、誰にとっても出会うところすべて我が“いのち”なのであり、誰でも天地一杯の“いのち”を生きているのです。

ただ、人間の場合には、アタマで分別的に認識した内容を存在の真実そのものだと思うクセが非常に強いので、私たちは自分が“いのち”であることも、他人などいないことも、また、本質としては生死を超えた存在であることも見失いがちです。

そして、自他の観念に縛られて、自分と自分の家族を守ることこそ最も大事だと思ってケチ臭い生き方をし、しばしば”他“と対立したり争ったりし、心の底では、いつも死を恐れながら生きています。

だからこそ、こころがけてアタマを手放しにして瞑想の自然法や只管打坐をやって、本当の自分を再体認する必要があるのです。

(つづく)




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自己の世界  その3

自己の世界  その3
(その2からのつづき)

これまで書いてきた自分と世界の関わり方についての理解、バラバラ観のどこに問題があるのでしょうか?

それは「その1」の冒頭に書いた「私たちはふつう、この世という舞台に登場することを誕生だと思い」というところに決定的な間違いがあったのです。


この文句の意味を自分について言えば、「自分は自分にとっては”他“であるところのこの世”に“生まれた。だから、自分以外はすべては他、みんな他人だ」ということです。

では、真実はどうなのでしょうか?

真実は、すべてのもの、そして、人はこの世“から”生まれたのです。もちろん、自分もこの世から生まれたのです。だから、すべてのものや人はこの世そのものであり、みんなぶっ続きの一つのものなのです。

分かりやすく比喩的に説明しましょう。

この世は大きな川のようなもので、遥かなる昔から絶えることなく流れ続けています。その流れの中にいくつもの渦(うず)が現れます。その渦の一つが自分です。

その渦は絶えず姿が変わります。そして、やがて、もとの川の水に戻って消えます。

さて、その渦と川の水はもともと別々のものでしょうか? もちろん、同じものですね。

では、その渦と他の渦はもともと別々のものでしょうか? もちろん、同じものですね。

私たちのアタマはその渦とあっちの渦は別のものなどと思うのですが、それは表面的な形とか存在する場所が異なるからなどと、なんでも分別(ぶんべつ・ふんべつ)せずにはいられないアタマがつい、癖で、そのように思ってしまうだけのことです。本質的には、どの渦もみんな同じ水であることは明らかです。

では、その渦は川の一部分なのでしょうか? 

今、象というものについて何も知らない目の見えない人が1頭の象の尻尾を掴んでいます。そばにいた人が「それは象というものだが、象がどんなものだか分かるか?」と問えば、その目が見えない人は「象はヒモのようなものだ」と答えるでしょう。

象の鼻を掴んだ場合には「象はホースのようなものだ」と答え、象の足を掴んだ場合には「象は丸太のようなものだ」と答えるでしょう。

けれども、真実は、本質的には、象は1頭の象という全体でしかないのです。

この例が適切かどうかはわかりませんが、要するに、「全体があり、その部分がある」というのも私たちの分別を好むアタマのクセのようなものであり、本質には、全体も部分もないのです。

もちろん、アタマが捉えた表面的な現象に沿って、「その渦は川という全体の一部分である」と表現しても、それが間違いだと言っているのではありません。ただ、それによって本質を見失ってしまえば、「象はヒモのようなものだ」と言うのと同じようなことになりかねないということなのです。

要するに、本質としては、その渦も他の渦も川もみんな同じ水であり、互いに、交流・循環しあっているのですから、全体と部分などと拘(こだわ)る必要はないのであって、その渦を見て、「川だ」と言っても何の間違いではないのです。
(つづく)




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