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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の実際  その7

川の瞑想の実際  その7
(その6からのつづき)

音が鳴っているのに、その奥に静寂を感じる。また、そこに見えているものの奥に、“見えないもの“がある。「見えているものが、同時に見えないものである、というのはどういうことか?」ということですね。たしかに、ここまで、常識的には、変な話をしているわけです。

それについては、僕は、人間の五感は人間が本来持っている能力のごく一部にしかすぎないのだと思うのです。普段はその五感で捉えた情報をアタマで認識しながら生きていると思いがちですが、五感以外にも情報を得る感覚器がいくつもあり、それを認識する脳の仕組みも他にあるのだと想像できるのです。

たとえば、一方では目で見て、つまり、視覚とアタマによって、こうやって見えている。けれども、別の感覚器と認識脳で見ると、これが透明なものとして見える。また、普通の耳、聴覚で聞くと、音がしている。でも、他の感覚器と認識脳では静寂を捉えることができる、というようなことがあるのではないかと思うのです。

たとえ話のように聞こえるかもしれませんが、ここに不思議なメガネがあるとします。1本のタンポポの花を、現象が見える左のレンズで見ると、姿がそのままに見える。でも、本質が見える右のレンズで見ると、透明なるもの(空)として見えるのです。普段は左のレンズしかないと思い、すっかりそれを頼りにして、見えている現象の姿だけしかないと思っています。けれども、本質が見える右のレンズがあることに気づき、そちらで見ると、透明なるもの、空と見えるのです。右のレンズがあることに気がついて、それに慣れてくると、1本のタンポポの花を見ても、現象のそのままの姿と本質の透明なるもの、空が二重に重なって見えるというわけです。

左のレンズを現象が見える肉眼。右のレンズを本質が見える“心の眼”とでも呼べるのではないかと思います。つまり、肉眼で見ると、姿がそのまま見え、心の眼で見ると、本質の空が捉えられるというわけです。

五感のほかにも感覚器と対応する脳の認識部位の他に、別の感覚器とそれに対応する別の認識部位があるということは作り話のように思えるかもしれませんが、決してそうではありません。

野口整体を実践している皆さんは、すでにある程度それを使いこなしているのです。それは「気」です。手が(自分の、あるいは、他の人の)必要なところにすっとくっついていく。背骨の鈍っているところが黒く見える、相互活元運動でお互いに共鳴し合う、などなど。

みなさんはある程度そういう気の世界を体験しています。野口先生が言われている気というのは、それは明らかに神秘的なものではなくって、五感以外の確かなものとして、気をちゃんと感じられる。誰でも生きている以上は、それは働いているんです。ただ、アタマが五感を通してアタマで認識できるものしかないと思っているので、目で見えたものだけがあるとしか思ってない。だから、野口整体を本当に知らない人は、「そんなのは超能力じゃないの」なんて言うのです。

野口先生の場合は、幼い時に声が出なくなった。ジフテリアです。それで、苦しまれて、それを何とか全力で打ち破ろうとした時に、別の感覚器が、元々働いてたんだけどそれがバーッと活性化したということだったんだろうなと推測しています。

気の世界というのは単なる観念としてじゃなく、事実として明らかにあるんです。それをあるということがわかっただけじゃなく、僕らが目で見て、ここに茶碗がある、あ、これはちょっと冷たいなとか、それと同じような感じで、野口先生の場合は、気というものを確かな感覚として、使いこなされていたんだと思います。だから、先生は「誰にもそれがあるんだ」ということに気がついて、それを使っていけば、だれでも健康になっていく」と言われたのです。

ところが、現代人は「五感とアタマの認識力、人間の能力はこの程度なんだ」と封じ込めてしまって、こういう能力は特殊な人だけにある特殊能力であり、普通の人間は頼りなく、ひ弱な存在であり、薬や注射など外部からの助けがなくては生きてはいけないと思っています。そして、現代科学をすっかり当てにして、もともと誰にでも自分で自分を整え、健康を維持していける素晴らしい能力が具わっていることにも気がつかない。だから、もちろん、活用もしないのです。

だけど、現実にこうやって生まれてくること自体、呼吸していること自体、みんな五感だけの働きではない。五感を通してアタマで認識できるものとは違うところの働きがあって、こうやって生きているわけです。五感はごく一部でしかないのです。

むしろ、気とかそういうもののほうがより確かです。距離が離れていても通じるんです。直接見てなくても、壁を通してでも通じ合うことができる。これは普通特殊な能力と思われているけれども、実は、当たり前の能力なんです。

ですから、もう一回そこに立って、人間とは何なんだと考えてみるべきなのです。自分の能力を自ら封じ込め、限定したところで、野口整体で言われていることを捉えようとしても捉えきれない。だから難しい、難しいとなってしまうわけです。生まれつき特殊な能力を持った人だけができるようになるんだろうとか、特別な訓練をしてそういう能力を開発しようというようなことになるんですね。

でも、「そんなようなことやらなくても、元々誰にもあるんだよ」というところから出発しないとダメです。そうでないと、修行して、「自分が」そういう能力を身につけたいという、「俺が俺が」の競争になってしまう。俺はすごいだろうと。こんな力があるんだよ、ということになりがちです。

そんなものが一体人間の何の役に立つんだ。本当の幸せということから言うと、言葉では、「自分を向上させるのだ」などと、美化してるんだけど。それを一枚引っ剥がすと、「自分が人よりも勝っていたい」というところが見えてくるんですよ。一言で言って、「グダラナイ」。

それは余談ですけども、「ほら、見えるものの奥に、透明で見えないものがあるでしょう」なんて話を、普通の人が聞いたら、なんて言うでしょう。「この人は特殊能力の持ち主なのかな?」と思うかもしれませんが、僕が言おうとしているのは、誰でもそれが当たり前にならないと本当の生きている甲斐がないっていうことです。実は、みんなそういう能力を備えており、その力によって生きているけれども、それをこの社会の洗脳によって、無意識のうちに封じ込めているのだ、と言いたいのです。

いずれにしてもいきなり、「空」というようなところに行かなくても、まずは「絶対の静寂」ということがはっきりしていくと、自然にそういうものはわかってきます。ただ、静寂と音と空間、それは違うものみたいな観念でそれらを別々のものであると区別していれば、本質に気がつきにくいのです。静寂、それは透明な空間や空に通じる、ということがアタマに入っていると、そのうちに、「なるほど、みんな同じことなんだ」ということを体験的に理解できると思います。

大切なことは、できないと決めつけないこと、そして、ほんとは簡単だということ。それから、絶対の静寂ということは、別のほうから言えば、空ということでもあるのか、ということをアタマに入れておくということです。それが今わからなくても、そのうちに、あ、なるほどこういうことかと解ります。いっぺんにここで全員が「みんな空です」とならなくても、ひとりひとりの気づきの歩みというのがあるのです。でも、そのように思い込もうとするのではありません。

ということで、もう一度、川の瞑想に入ります。

今回の川の瞑想は長いです。25分くらいやります。時間が長いと、途中でだらけるみたいな、眠くなってくるような人は、気をしっかりとしてやっていくとより深く入っていきます。

整体の実習では、普段、この川の瞑想の時間をあまり取ってないと思うんですけども、家でやる時はできるだけ長く、最低20分、できれば50分やってほしいわけです。そうすると深まり方が全然違うので、さっき言ったように、あ、本当に何もない。体もない、消えちゃった、というようなことを当たり前に体験するようになるでしょう。

でも、そういうことを興味本位でやることではない。あくまで、五感を超えて、自己の本質、存在の真実を体験的に捉えるのだという気持ちでやってください。「見えるもの」が「見えないものである」、透明な空間でもあり、空であるというのは単なる観念的なことではないんだということです。

NHKで最近やった番組ですが、交通事故で脳に損傷を受けて、突然絵を描きたくなった。描いてみたら、緻密な幾何学模様で、すごいものが描けた。それ以来、描きたくて描きたくてしょうがない。いいものが描けたからもっと描いてみようとかそういうんではない。描きたいという気持ちが中から湧きだしてくる。それまで絵なんか全然描いたことがなかった人がそんな絵を描いてるわけです。

そういうようなことが、絵だけじゃなくって、アタマにいろんな数式が浮かんでくるとか、世界中にいろんな症例が見つかっているんです。やったことがないのに。何でできるんだと不思議でしょ。私たちの脳の中にはものすごい能力があるんです。でも、その一部しか使ってない。特にあなたは。いや、みんなそうなんです。すごい天才なんて言われている人だって、脳のごく一部しか使ってない。何パーセントも使ってない。ほとんど99パーセントは使ってない。

野口先生なんかは普通の僕らから比べるとすごいですよ。本を読むスピードが1ページ数秒。で、それを30年たっても一字一句、全部覚えている。昔の漢文とか。そういう難しいのを。和田先生もそういう方でした。

脳のある部分が開けているのです。というか、実はそっちのほうが当たり前だということです。野口先生にしても和田先生も同じ言い方をされている。できるほうが当たり前なんだと。できないのは自分で意識的にアタマを変な使い方をして、閉じ込めているからだと。だから私たちはまだまだ可能性があるのです。お互いによかったですね。

みんなすごい能力があるということです。感覚器も必ずしも五感だけではない。気なんていうのはごく当たり前の世界。ものが透明に見えたなんていうのは、昔から伝わっている坐禅の悟りの体験談を読むと、あちこちで出てくる。

「ここにこのようにあるのが何で空と言えるんだ」と最初は思うわけです。一体何を言っているんだと。あるいは、逆に、それをもって「悟りだ、悟りだ、とても凡人の及ぶところではない。すごいことを達成されたんですね」みたいになって崇め立てられているわけです。でも、それは誰でもできると思っていると、そのうちにごく当たり前にいろんな現象が起きてきます。

でもそれは決して自分が素晴らしいからじゃない。人よりも優れているからでも何でもない。ただそういうことが起きるんだなということです。他の人もそういう能力を持っている。誰だってできることが、自分にもそのうちのひとつが起きたんだな、と自然に謙虚でいられるわけです。だから、誰でもただの人。野口先生も和田先生もただの人なんです。

ただ、野口先生にしても和田先生にしても、ものすごく愛情深い方でした。キリストの話もしましたけど、とにかく愛情深い方々です。ひとりひとりの存在を本当に認める、それはすごいです。努力して認めているんじゃなくて、本当に存在として認めて、大切にする。このような方々に出会って、自分の目が開けました。

奈央先生もそれでいのちを救われたのです。だから野口先生に対してはもう信仰とかそういうんじゃなくって絶対的な信頼があるわけですね。ひとりの人間としてはっきり認めてもらった、どんなに生きていてよかったと言えるかということですね。それでここまでやって来たんですね。僕にとっては和田先生がそういうお方です。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その6

川の瞑想の実際  その6
(その5からのつづき)

静寂ということをテーマに川の瞑想をやっているわけですが、今目を開けてやったと思いますけど、目を開けているといろんなものが見えます。それは全くの静寂であり、実は、「空」なんです。いろんなものが見えているわけですけども、その実体は空であるというのがしだいにはっきりしてきます。

ちょっと理屈っぽく説明すれば、静寂というのは音が“ない”ということです。つまり、音はその“ない”という静寂から現象として現れて、そして、また、“ない”という静寂に戻っていきます。ですから、現象としての音の本質は何もない静寂だということです。

言い方を変えれば、静寂というのは “ない”ということですから、「中身空っぽ」、すなわち、「空」であるということです。

同じように、眼に見えるものは“透明で見えないもの”、すなわち、“何もないもの”から現象として現れ、そして、また、“何もないもの”に戻っていきます。

“何もないもの”というのは「中身空っぽ」、すなわち、「空」であるということです。

したがって、静寂=なにもないもの=空=透明で見えないもの、であり、「空」を聴覚を通して認識したものが「静寂」であり、視覚を通して認識したものが「透明で見えないもの」ということになります。

ですから、音を通してその奥にある静寂を実感することも、見えるものを通して透明で見えないものを実感することも結局は同じことであり、現象の奥にある空を実感しているのです。

そして、それは自分の外にあるものだけではありません。視線を反対方向、すなわち、自分の体の内側というか、奥に向ければ、そこに絶対の静寂と絶対の透明な空の世界が広がっていることに容易に気がつくことができます。

何かを見ている自分、あるいは、聞いている自分をどこかで意識しています。また、体の感覚を感じたり、思いも出てきます。けれどもそういうものは現れるままに放っておきます。

そうすると、静寂がはっきりしてきて、思いもぽつぽつとたまに出てくるという感じになって、心が穏やかになり、安らいで、まったく気にならなくなります。そして、とても澄んだ心になっていきます。

そのようになって来た時にはっきりすることは、自分というものの実体、ここに肉体があって、そこに、いろんな思いもあったりして、何かが詰まっている感じがしていたのが、今度は自分自身が何もない。その実体が空であるということがはっきりしてきます。

これが、道元禅師が言った、身心脱落という境地ではないかと思います。でも、境地というよりも、誰でも本当はもともとそうなんです。

道元禅師の身心脱落の体験のエピソードはこういうことです。道元禅師が、もう800年以上昔ですけども、中国の南宋の地に行かれて、そこで、如浄禅師というお師匠さんの下で修業されました。

夜、鐘の音か鳴り、みんなが坐禅堂に集まって坐禅をするわけなんですね。真夜中になってもみんな坐っていた。そしたら、如浄禅師が入って来られて、たまたま道元禅師の近くで居眠りをしていたお坊さんをしかるわけです。

「坐禅中に居眠りをするとは何事だ。真剣にやりなさい。身心脱落せよ」と大きな声で叱ったのです。脱落という意味は「抜け落ちる」ということです。

それで、道元禅師もあらため、真剣に坐りました。どのくらい時間たったのか、道元禅師が如浄禅師の部屋入って、お線香を立てて、礼拝した。そこに仏像か何か置いてあったんでしょうか。

で、如浄禅師が訊ねるわけです。「何しに来たのか」と。道元禅師の言葉は本当にかっこいい。「身心脱落して来たる」と。明らかに、道元禅師は悟られたのですね。身心脱落ということを、観念ではなくて、体感というか体得された。それが、道元禅師の教えの基本になっているんですね。「ただひたすら坐って身心脱落せよ。坐禅は身心脱落である」
というわけです。

その身心脱落というのは、今、みなさんのうちの、少なくとも何人かは体験された、その状態です。自分の身も心もその中身は空っぽである。空である。ただ澄み切ったものが、透明なものが、そのままあるだけだ。そして、いろんなものがあるけれども、みんな中身空っぽ、空である、ということです。

人間はいつも「何かがあるはずだ、あるはずだ」と思っているわけです。そう思っているから、本当のことに気が付かないけども、本当は何もないんだ。いろいろな現象や存在は何もないところから立ち現れている。それがわかってくる。この中にもわかった人がいると思います。

難しいことではない。非常に単純なことなんですが、このように、わかりやすく、説明したのを僕は聞いたことはありません。

昔からみんな、坐禅の本とかいろんな記録を見ても、悟ったというような体験はあっちこっちにあります。すごい修業をして、大変な思いをして、それで、何かがバーンと外れて悟った。中身空っぽである。空であるというようなことは書かれている

けれども、その身心脱落ということが文字通りどういうことであるかということはあまり説明されていない。今みたいに、こういうような、川の瞑想ですね、そういうものを通じて体験できるというふうに説明したものはありません。

偉ぶって言っているわけではなくと、事実として言っているのです。そして、誰でもできることなんです。

道元禅師が「ただひたすら坐って身心脱落せよ。坐禅は身心脱落である」と言われたのは、ご自身の心身脱落の体験から、「正しい態度で坐禅をすれば誰でもできるのだよ」ということが根底にあるのだと思います。実際に、道元禅師にそういうふうに言われて心身脱落を体験されたお弟子さんもいると思います。けれども、はっきり言って、少なくとも現代人には、それだけでは足らないように思います。

只管打坐ということで、ただひたすら坐りなさい、全てを任せて坐りなさい、自分のアタマの思いを追っかけないで、ただアタマの思いを手放しにして座りなさい、と言われます。

それは間違いではないですが、いろんな妄想が渦巻くような状態で、自分はアタマの思いを手放しているつもりでも、本当にアタマの思いを手放していることができるのか、疑問です。

只管打坐。思いを手放して坐る。そのこと自体が身心脱落だというふうに説明されています。確かに思いを手放しにして坐相をしっかりと守り、任せているという意味では、それでいいんです。

だけれども、全てが静寂の中から起こっている。全てが空から、無と言ってもいいですが、何もないところから現れているんだということを、体感しながら坐っていなかったら、それは本当の意味でのアタマの手放しにもならないし、ただ観念的に「坐ることがすなわち心身脱落だ、悟りだ」と思っているにすぎないのだと思います。いろいろな異なった考えはあるとは思いますが、僕自身の体験からはそう思うわけです。

それはそれとして、こういうふうに、畳があるけども、そこを見ていると、ただ静寂しかない。そこをさらに見ていくと、畳という形には現れているけど、その奥には、空があるだけです。

そういうようなことがはっきりして、見えているものだけではなくて、見ている本人自身も空なんだということが、観念ではなくはっきりわかる。それを確認しながら坐っている。

そこまでいかないと、といっても、そんな難しいことではないんです。誰でも10分とか15分の中で体験できるわけです。それをきちんと言わないと、「ただ坐りなさい」というだけでは、本当の意味では、道元禅師が言われた身心脱落にはならないだろうと思います。

言葉がちょっとかっこいいもんだから、どこかのお坊さんが「ただ坐りなさい」なんてやっているというのを聞いたことがあります。でも、「ただ坐る。それが悟りだ」と言われても、何の実感もなく、何にもなりません。

内山興正先生は「アタマの思いを手放しなさい全てを任せて坐りなさい」と的確に言われています。実際に、きちんと、アタマの思いを手放すことができるように、綿密に指導されたのだと思います。

坐禅だから動かないんですけども、活元運動みたいなもんですね。そこまでは、間違とはいないけども、その先が、静寂とか、空。それを自分自身の実体なんだ。周りの世界もそういう空の世界から立ち上がっている。それを体感しながら坐っていないと、かえって観念的な坐りになってしまい、本当の意味での、只管打坐にはならないと僕は思います。

身心脱落というのが一番難しいこととされているわけです。そんなものではない。では、ただ坐っていればそれが身心脱落かというと、そうでもない。そこが、自分が空だということ、これがはっきりしない限りはどこまでいっても自分というかたまりに固執するわけです。

自我。アタマで何とかしなきゃと、どこまで行っても、自我が抜けきらない。自分の本体が空であることを実感していなければ、どこまでいっても、自分と思っているもの、つまり、自我にしがみつきます。

かつての僕のように、普通の人は、なんか自分というころっとしたものがあると思っているわけです。単なるアタマの思いだけではなく、体も心もなんかころっとしたもの、これこそが自分だと思っているわけです。そのころっとしたものの奥を見て自分の本体そのもの、つまり、空であることを観るというのが川の瞑想です。

(つづく)





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整体セミナーの感想  DDさん

整体セミナーの感想  DDさん

奈央先生 昇平先生 恵理佳先生

総合・合同コースに参加し、先生方はじめ、長年続けてこられた先輩方と一緒に学ばせて頂き、たくさんの気づきを得ました。

先生方の教え1つ1つが自分の中で大きく、力強く根づき、夏の太陽を浴びる様に大きく花開いていくように感じています。

セミナー後、自分の中で”無力である“という感覚が浮かびました。命である本体に申しわけない、浅い思いではありましたが、仕事上何ができていたのだろうというものでした。

そんな時、自分の中、奥の奥から”無力という言葉そのものを無限の力と捉えてください”と聞こえてきました。

セミナーでの教えの深さが形になり、表に現れ、私に語りかけてくれました。

尊いですね。全てに響きました。

岩手の夏をここち良くすごし、心と体の声を聞き、9月のセミナーに笑顔で参加できるよう整えていきます。

奈央先生のお母様に安らぎが届きます様、お線香を送らせてください。

ご縁と導きに感謝しています。

山の夏を体験できてよかったです。

不自然なクーラーに振り回されそうになりましたが、(多少死にかけてました)、知恵とお教えを総動員?させ、良い経過をたどっています。(笑)





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整体セミナーの感想  AAさん

整体セミナーの感想  AAさん

昇平先生、奈央先生、恵理佳先生

先日の整体のセミナーではありがとうございました。

今回もまた、参加させていただいて、本当に良かったです。

奈央先生からのお母様のお話は、とても心に響きました。心からそう生き抜くことが出来る人で在りたいと思いました。そして、天の意志に沿って生きること、そう思うだけで決意と喜びを感じます。

先生方の、一つ一つの言葉の重みと真剣さが、私自身と深く向き合うことを導いてくれました。

川の瞑想の中で、自然と沸き上がってくるような覚悟を感じ、丹田の力強さを始めて感じました。

今まで自分がしてきた瞑想は浅いものだったな、と思います。幸せを感じたことに満足していたような、むしろ幸せを得ようと瞑想していました。それが、川の瞑想の中ではずっと変わらずにある静寂そのものを感じ、そしてすべてに静寂があり、言葉にできないほどの大きなものに包まれて広がっていきました。

宇宙と一つの呼吸を感じて、汗がどっと出るほど身体が熱くなりました。

当たり前にあったんだと気づき、ここからが始まりになるんだと思いました。

日々の実践、瞑想を続けていきます。本当にご指導ありがとうございました。

次回、9月のセミナーでもまたお会いできることを心から楽しみにしています!!






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自覚のセミナーの感想とその後  PPさん

自覚のセミナーの感想とその後  PPさん

 自覚のセミナーから帰ってきて1週間が経とうとしていますが、日常生活の中でもセミナーが続いているような感覚があります。今回、6年ぶりに再受講させていただきましたが、参加できて本当によかったです。

 初めて受講したときも、帰宅してすぐに夫に受講を勧めたほど、自覚のセミナーのすばらしさを実感していました。それから程なくして、自覚のセミナーを受講した私はやっとスタート地点に立てたのだと気づきました。この6年の間、ほぼ毎月、整体ライフスクールのセミナーに通って継続的に先生方からご指導を受け、日々さまざまなことを経験する中で、歩みはのろくとも、確実に変化し、成長している手ごたえを感じていました。そして、ようやく自分のためだけに生きるのではなく、みんなが幸せで平和な世界を実現するという方向性がはっきりし、心からやりたいことが出てきました。ただ、実際に行動し始めたものの、油が足りない車輪のように、どこかスムーズに回らないものを感じていました。

 そして迎えた2度目の自覚のセミナー。前のセミナーがどうだったとか、今までのことは脇に置いて、ゼロからやり直す気持ちで臨みました。実際にセミナーが始まってみると、そんな心構えも必要なかったと思うぐらい、だいたいのテーマにおいて初めて参加する人のような有様でした。でも、再受講だからどうこうという恥や外聞よりも、再受講だからこそ中途半端には絶対帰れない、これから前に進むために何としてもはっきりさせたいという気持ちのほうが勝っていました。

 そういう態度でいたからか、今までも昇平先生から聞いていた言葉の数々が、違う響きを持って私の中に入ってきました。そのすべてが、扉を開くための大切な鍵であるように感じました。だから、その鍵を手がかりに「本当はどうか?」と今までの人生を見つめ直し始めました。

 2日目の朝の休憩時間、先生方のコーヒーを淹れていると、昇平先生が話しかけてくださいました。「自分で壁に頭をぶつけているようなものだよ…帰るまでにわかるよ。」コーヒーの粉がお湯を吸い込むように、先生の温かい声が心に沁み込み、コーヒーを淹れていたことも忘れてしまいました。

 昼休みに一人で横になり、流れてくるカノンを聴いていたら、亡き祖父が傍にいるのを感じ、応援してくれているのがわかりました。他にも見えないところで多くの人の支えがあることを感じました。

 3日目に転換が起こりました。「○○○ですっきり楽しく生きられますか?」という問いは、お手上げ状態で、どうやって検べればいいのだったかと思ってしまうほどでした。次々と周りの人たちが答えていく中で、ちょうど右隣に座っていた△△さんの発言を聞いていたとき、はたと思い当たりました。「私はすっきり楽しく生きたいと思い、それを選んでいたと思ってたけど、実は選んでなかった!?」まさかと疑いたくなりましたが、それは疑いようのない事実としてそこにありました。「私は今までいったい何をやっていたんだろう…」唖然としていたちょうどそのとき、昇平先生から質問され、うまく言葉にならず大泣きになりました。

 「自分の姿が全く見えていなかった。こんな単純なところで引っかかっていたとは。整体ライフスクールに通い続けていったい何をしていたのか。先生の話を聞いているつもりで、全然自分のこととして受け取れていなかった。中途半端な"節煙"の生き方をしていたんだ。なんてバカな。そして、先生方はそのバカに真剣に付き合ってきてくださっていたとは…」こんな思いが一気に押し寄せ、泣いて笑うしかありませんでした。そして、すっきり晴れ晴れし、自動的にすっきり楽しく生きる道を選択していました。

 他のテーマでも、自分のいろいろな癖がよく見え、これでもかというほどすぐにアタマになる自分がいました。だからこそ、答えを出すときは、アタマの理解ではなく体感があるかを常に確認しました。不自由な枠に収まっていたことにも気づきました。平和な世界にしたいと言いながら悠長に構えていた非現実的な自分にも気づきました。

 日常生活に戻り、初心者マークを付けて左の世界を走っているような感じがします。長年慣れ親しんだアタマモードに引っ張られないよう、自覚のセミナーのことを思い出しながら、真実の生き方を深めていきます。早速、「パクチーはパクチー」という言葉が事実を見るきっかけをくれました。

 自覚のセミナーは本当にすごいです。昇平先生のファシリテーションは絶妙で、参加者全員がたった5日間で劇的に変化し、存在の真実に気づきます。これを体験した私たちは、自分たちだけのもので終わらせず、他の人たちが受けるチャンスを作っていくバトンを持っていると思います(責任でも義務でもなく)。

 最後になりましたが、昇平先生、奈央先生、恵理佳先生、いつも本当にありがとうございます。お世話係の鳥居さん、一緒に受講した仲間、整体ライフスクールの仲間、その他すべての人、すべてのことにありがとうと言いたいです。


自覚のセミナーその後

 自覚のセミナーを再受講してから2ヶ月以上が経ちましたが、もっと時間が経ったような気がしています。セミナー中にハッと気づいたときの感覚は鮮明に残っていますが、自分が書いた感想文を読み返すと、言い得ていないような、もう古びたような印象を持ちます。
 その後心がけてきたことは、本当はどうかと物事を見ること、人の話を素直に聴くこと、自分の姿を客観的に見ることなどです。どれも基本的なことですが、心がけたからこそ見えたこと、気づけたこともあり、一方で、心がけても不十分だった部分もあるように思います。

 例えば、今までは、人からどう思われるかという意識が染みついていて、自分をよく見せたい、できないことは恥ずかしいといった気持ちが知らぬ間に働いて、どこか自分を取り繕うようなところがありました。それは、バラバラ観があり、まだ守るべき自分がいると思っていたからですが、その守ろうとしていた"自分"は砂でできたもののようで、そのもろいものを必死で守ろうとしてきたことがわかりました。でも、それが一瞬で崩れてなくなった今は、なんと楽なことでしょうか。今まで、砂でできた幻想を大事にし、まさに独り相撲をとっていたのです。これからは、ただ、できないことをできるようにしていくだけです。

 自覚のセミナーを再受講する以前も、静寂や不可分一体のいのちを体感していましたが、実際に日々の生活においてどうかと言えば、静寂の中にいる時間が少なく、静寂の度合いも浅いため、中途半端な状態でした。そんな状態だから、本当は左の世界しかないのに、左右にフラフラしてきたのです。瞑想がすべての基本だということが身に染みてわかりました。常に絶対の静寂を感じて生きていけるよう、川の瞑想を正しいやり方で続けます。





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